アルカは西洋語か



統語論において基本語順はしばしば他の要素を決定、或いは強く示唆する力を持った存在です。
たとえばSVOであれば前置詞の存在が暗示されるというように、基本語順は品詞の性質を決定・示唆したりします。

世界にはSOVのほうがSVOよりも多いわけですが、英語を含んだ西洋語の多くがSVOであることと、中国語がSVOであることを考えると、
言語の数としてはSOVのほうが優勢かもしれないけれど、勢力的には既にSVOのほうが優勢でしょう。

アルカはSVOを取りますが、これはいま述べたような政治的・経済的な原因ではありません。
元々アルカはSOVでしたが、SとOの区切りが分かりにくかったため、Vを間に入れました。
アルカは動詞が有標形式です。いまでも動詞媒介が入ります。
それで、Vを間に挟むことでSとOの区別をつけました。

VSOを取らなかった理由も同じです。SとOの境界線としてVを間に入れたかったからです。
論理的にはOVSでも良いわけだけれども、これは流石に類型論の成果を考慮した上で却下しました。

尤も、SとOの境界など、普段は問題になりません。
でも古アルカは表意文字でしかも孤立語的で、SとOの格表示機能を持った語も使われませんでした。つまり「が」と「を」がないわけです。
表意文字なので漢字のごとく羅列されるため、どこが区切りなのか、どこまでがSなのかが分かりづらかったです。

古アルカもそのような状況でした。
そういう文字の都合でSVOになったわけですが、自然言語を見れば表意文字でSVOでないものもあるでしょう。
ただアルカはそういう道を歩んだというわけです。

さて、SVOなアルカは基本語順が英語などの西欧語と同じです。
なので前置詞に当たるものもあるし、関係詞まである。
こういった共通部分だけを抜き出すと、わりと複雑な複文でも英語をそのままアルカに変えることができます。日韓翻訳みたいなものですね。
たとえば――
I think Mary who killed John with scissors told lies to us
an os-i miir en set-a veig kon klas ku-a fie al anso
――のように。

一方、ここに形容詞や副詞を入れると話は変わります。
修飾は後ろからですし、副詞は常に動詞に後続するか、rax格に回ります。
英語とは変わってしまいます。フランス語でもgrandなど、数語が前置されます。
むしろこの辺りで統語的に近いのは紫苑にも言わせましたが、インドネシア語かもしれません。

私はインドネシア語を知りません。アルカを作るときはやはり日本語から考えることが多いです。
私にとって英語は母語でないし、アシェットのせいで方言ばかり喋ります。
アルカよりずっと正しく喋れません。英語のテストでも正規の学校英語でないためにバツを何度も食らいました。

なので普段は日→幻という脳内翻訳が多いです。
日常的会話であれば訳さず直通で言葉が出ますが、高等な内容になると大人の私にはもうお手上げです。母語から訳すしかありません。
アシェットには英語母語話者は殆どいないのですが、SVO出身は多いです。なので彼らには脳内翻訳しやすいかもしれません。

英語と対照した場合、修飾の語順などで大きく異なるとは述べましたが、構文的な違いはどうでしょう。
たとえば英語には伝統的な5文型がありますが、このうちアルカには第3文型しかありません。
また、比較の表現方法も異なり、ヴォイスの表現法も異なります。
I am taller than youはan van ti et sorで、I was hit by himはan bad-a yu laです。

基数と序数の表現も異なり、特に「何番」が問える点で異なります。
hain alteems et artales tola?は英語にはしづらい代表的な文です。

時制の一致も英語とアルカでは異なります。
このことは不便で、英語で喋っているとアルカの時制論で時制を決めてしまうことがあり、無駄に誤用を増やしています。
I thought he is rightなどと平気で喋ってしまうので、「あ、違うんだっけ」と後から思うことがあります。

そういった違いもありますが、SVOという大局が共通しているため、日本語をそのまま訳すより、西洋語をそのまま訳したほうがアルカになるという点があります。
これがただの西洋語の模倣なら、新生人工言語の意味はなく、途端に陳腐でつまらないものになります。
アルカの場合は文字と合理性の問題でSVOになり、その結果他の品詞や構文がいくつかできました。
細部では西洋語と様々異なる構造を持つため、総体としてはアジアの言語に近いと判断することもできます。

かといって英語の単語を置き換えるとアルカに見えるというのは、面白いことではありません。
エスペラントなどと差異化することに価値を見出すわけではないですが、そう見えることが面白くないのです。
気持ちの整理を付ける上で、「英語に似ている」ではなく「英語が偶々アルカに似ている」と思うことにしています。
実際のところ諸々の文法では英語的ではありませんし、SVOなどいくらでもあるので、アルカの独自性が損なわれることはないでしょう。

ところで、日本が韓国と戦争になっても同じSOVの構造を持つことを厭うとは考えづらいです。
韓国語の語は排他したとしても、自言語の構造まで嫌うことはないでしょう。
それは日本語がアイデンティティを確立しているからです。
日本語を韓国語の模倣だなどと恥じることはありえず、日本語は日本語だというアイデンティティを話者が自覚しています。

アルカはようやくその状態に辿りつきました。
かつて気になっていたhとハルの文字の類似性とか、音素が西洋語と似ていることとか、統語の類似性といったものは、
だんだんアルカのアイデンティティが確立されるごとに払拭されました。
西洋語と似ているんだというのではなく、単にこれがアルカなんだなという実感に変わりました。

もし西洋語を模倣して作ったのなら、「結局根元は西洋語なんだよな」という呪縛から解放されなかったでしょう。
仲間内の言語としては始めから失敗作です。
ゼロから作りこんだ自負があるからこそ、みんな自分たちの言葉を信用することができるのだと思います。
そして、だからこそ評価してくださる客観的立場の方がいるのだと思います。