人工言語と言語学
人工言語は言語学の対象ではない。これは言語学の常識であるとともに暗黙の了解でもある。美しい国語や正しい日本語について論じることがないのと同じで、人工言語について論じることは通常ない。
ただ、それはあくまで現代の言語学においてである。言語学にも潮流やパラダイムがあるので、別に人工言語を論じてはならないという決まりが立てられているわけではない。強いて言語学の中でこれは論じないようにしようと合意を受けたのは言語の起源である。言語の起源は1866年のパリ言語学会で関連記事を掲載しない措置を受けた。だがこのようなことは稀である。(注:周知のとおり、このとき「普遍言語」も拒絶されているが、この皮肉に対する説明は本論の通時論で展開される)
言語に優劣はないというのは現代言語学の常識であるが、この常識は通時的に見ることができる。かつて西洋が世界の中心だった時代は西洋思想がはびこっていたため、屈折語は最も優れた言語で中国語のような言語は文法を持たないとか、日本語には文法が存在しないとか、日本語は非論理的な言語だといった主張がまことしやかに囁かれていた。現在の言語学に言語の優劣を問うと示し合わせたかのように声を合わせて否定するのは、かつての言語差別への大きな反動が関与している。このように、言語学は潮流があり、パラダイムもある。言語学は確固とした不動の存在ではなく、そのことは言語学者自身が痛感している。したがって人工言語が言語学の対象にならないという常識も確固不動のものではない。
そもそも人工言語と自然言語の違いは人為性であり、殆どの人工言語は自然言語と同じく言語学の分析対象となる音韻・文法・文字などを持つ。自然言語を分析する手法はそのまま人工言語に応用することができる。しかし完全に同じ手法ではない。人工言語と自然言語は同一物ではないので、分析には異なったアプローチが必要である。
本論は人工言語学を提唱する。今までの言語学を自然言語学と位置づける。両者を合わせたものが言語学になる。ただし、自然言語学は無標なので普段はこちらを言語学と呼ぶ。人工言語学は自然言語学と平行関係にあり、言語学の下位概念である。したがって術語や研究アプローチは共通する部分が多い。ゆえに本論では逐一言語学の概説書のような術語の説明はしない。その代わり、人工言語学にあって自然言語学にない概念を打ち立てたり説明したりする。
人工言語学にも音韻論や統語論や類型論がある。基本的に自然言語学と同じだが、分野によってはかなり異なる場合がある。たとえば人工言語は自然言語と違って「なぜ作られたか」という理由がある。それは意図された言語の目的や機能であり、自然言語にはない概念である。したがって人工言語学で類型論を述べる場合は屈折語や膠着語といった文法的な類型だけでなく、人工言語の機能分類や目的分類などに基づいた類型を述べる必要性がある。このように、人工言語学は自然言語学と趣を異にするので、本論は自然言語学との差異について重点的に述べる。
尚、本論は日常言語学に対比される人工言語学を意味しないので注意すること。ヴィトゲンシュタインに代表される人工言語学派は本論とは関係がない。尚、人工言語学派の考えを本論の人工言語学に当てはめると、概ね研究型人工言語に相当する。
いずれにせよ人工言語が言語学の対象にならないのであれば、誰かが対象にしてくれるのを待つしかないが、筆者はそこまで気長ではない。
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