類型的分類
フンボルトらの分類によると言語は類型によって膠着語・屈折語・孤立語・抱合語に分けることができる。ただし、言語はふつう綺麗に分類されることはない。英語は屈折語といわれるが、"Mary loves John."における格表示は孤立語的手段で表される。「完全な~語」というものはおよそ稀で、ある部分では膠着語だがある部分では屈折語といったように組み合わせられるのが通常である。それでもこの分類は有用で、ある言語が最も強く持つ性質が屈折語であれば、少し膠着語要素が混じっていても屈折語と分類してよい。人工言語についても同様で、これらの類型的分類が存在する。また自然言語と同じく複数の性質を同時に持つ。
エスペラント以降の人工言語は自然言語に比べ、膠着語を好み、抱合語や屈折語を選ばない傾向にある。エスペラントは西洋語からできているが、英語やフランス語やラテン語に比べると膠着の度合いが極めて高い。代名詞をみると英語がI, my, me, mineと屈折するのに対し、エスペラントは名格と対格の2種しかなく、対格は名格に接尾辞-nを付けることによって膠着的に表現される。
また、イド語は主格・属格・対格がある。このうち主格が無標で、他の2つは主格に接辞を付けて表す。1人称の主格はmeであり、その属格はmeaであり、対格はmenである。-a,-nの接辞は他の人称にも規則的に膠着し、2人称では順にvu, vua, vunである。
普及型は学習が容易になるように設計される。その普及型が膠着を選ぶということは、膠着が言語のシステムを作り学ぶ上で最も単純なシステムであることを示唆している。では実際にそういえるだろうか。屈折の場合、Iがmeになり、heがhimになる。この場合、都合4つの単語を無規則に覚えることになる。ところが膠着を利用したエスペラントではmiはminになり、liはlinになる。接尾辞-nを付ける規則があるため、覚える語数が減少する。膠着手段は規則を作るため、覚えなければならない事項を減らし、類推によって未知の単語を知ることができる。そのため学習に便利であるといえる。
孤立手段は接辞さえ必要としないため、より学習が容易なように思われる。しかしそうではない。孤立手段とは言い換えれば統語手段のことである。語順を操作して得られるヴァリアントな構文の数は、接辞として使える音節数より圧倒的に少ない。また、語順をあれこれ操作することによって構文が際限なく増えてしまうのも問題である。更に、語順を変えると文意を認識しづらくなってしまう。たとえば文の最後の単語まで聞き終わらないと最初の単語の文法的意味が決定できなくなるといったことが起こりうる。最後の単語を聞くまで文を頭から全て覚えていないといけないというのであれば、その言語は非常に学びづらく使いづらい。そのため、孤立語手段は限定的に利用されることが多い。
最後に抱合だが、これは屈折の極みである。屈折が膠着より学びづらいならば抱合は更に学びづらい。また、抱合は単語の区切りが分からないため、辞書形を定めるのが困難である。仮に辞書形を定めても学習者に辞書形を覚える労力を要求し、辞書を引くにも手間をかけさせる。
このような理由で一般に普及型では膠着語が好まれる。逆に普及型でない言語は膠着を選ばず敢えて屈折や抱合を選ぶということがある。ただそういった研究型であっても、複雑な屈折を持つものはあっても、複雑な語順規則を持った孤立語という選択肢が選ばれることは少ないようである。実際にそのような言語を考えることは可能である。たとえば語順だけでその名詞が劣等最上級になるような言語――つまり語順にleastの意味を背負わせる言語――は人工言語なら可能だろう。同じく、語順だけで父が祖父になったり娘になる言語も人工言語ならありえる。
普及型が膠着手段を採用しやすいのは事実であるが、あくまで頻度の問題であって、必ずしもそうではない。たとえばインテルリングアは普及型ではあるもののエスペラントと違い自然派に属する。インテルリングアはアングロ・ロマンス語を主として流入する。たとえばインテルリングアにおける人称代名詞(pronomines personal)は参照言語から流入されたものだが、これはエスペラントと違って屈折する。一人称の単数形の主格はioであるが、対格はmeになる。対して、複数になると主格はnosで、対格もnosのまま変わらない。
屈折する上に規則的でないという点で学習しにくいが、西洋人のドゥリンチェコなどから見ればインテルリングアの代名詞は文字通り「自然」であり、自然派の名にふさわしい。だが非西洋人の目から見ればその「自然」というのは「違和感のない」という意味ではなく、単に「自然言語の」という意味で捉えられるものである。西洋に偏重しない中立な人工言語学においてもインテルリングアの自然性は「自然言語の性質を持った」という意味で捉えられるものである。
エスペラントとインテルリングアのどちらが優れているかということを思い浮かべる者もいるだろう。優秀さの評価は自然言語の研究にはご法度だが、人工言語学ではある分野において寛容される。自然言語と異なり、どこまで内容が作りこまれているかといった習熟度の違いがある。また、人工言語は何がしかの作られた目的を持つが、その目的をどれだけ達成しているかでも優劣を評価できる。
エスペラントとインテルリングアはどちらも普及型であるから簡便な構造を持っているが、学習のしやすさというのは学び手によって異なる。東洋人には図式派のエスペラントのほうが学びやすいが、西洋人には規則的すぎるエスペラントより自分の母語に近い性質を持ったインテルリングアのほうが学びやすいと考える者もいるだろう。普及の対象を西洋或いは西洋に感化された地域に限定するのなら両者に学習上の大きな違いはないが、裾野をアジアやアフリカなど世界にまで広めるなら話は別である。日本人にとってはインテルリングアの自然さは英仏の代名詞の混沌さに見えるため、学習はエスペラントのほうが容易である。この代名詞の話を例に取ると、覚えねばならない形態素の数はインテルリングアのほうが上である。但し、この話は代名詞の曲用を例に取っているだけであるから、インテルリングアのほうが全てにおいて学びにくいというわけではないことを付け加える。
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