黎明期(2)



 今度は目を西洋に向けてみる。西洋を支配してきた文字はアルファベットである。表意文字である漢字が政治的・社会的・経済的・思想的・宗教的な影響を東洋に与え、人工文字へ至らしめたのと同じく、表音文字であるアルファベットは西洋の人工文字に影響を与えた。表音か表意かという違いが西洋の人工文字の運命を大きく左右することになる。ではまず自然言語に使われる表音文字アルファベットとはどのようなものであるか。

 そもそもアルファベットはフェニキア文字に遡ることができる。更に原初は表音文字でなく表意文字であった。それは象形文字であり、牛の頭や家などを指していた。やがて表音文字として使われるようになり、長い年月を経て現在のアルファベットに至る。フェニキア文字には子音しかなく、母音を加えたのはギリシャ人である。現在最も広範に使われるラテンアルファベットの祖語は音韻と照らし合わせるとこのギリシャ文字であると考えるのが妥当であろう――そこにはギリシャ語とラテン語の音韻体系の違いによる齟齬が大きく含まれてはいるが。

 アルファベットは西洋の各国語を表記するのに用いられてきた。しかし言語は変化するものである。そして変化は文語より先に口語に訪れる。発音が変わろうと綴字は暫く残存する。英語のdaughterにおけるghは黙字だが、かつては読まれていた。その名残は今日でもドイツ語に残されている。

 ただ綴字も言語である以上は変化する。変化が緩慢なだけであって、変わらないわけではない。現在の英語は視覚方言によるスペルが多く、俗語の類もこれに従う。実際の発音に近づけたスペルが公然と使われる。techniqueはフランス語の影響が薄まるにしたがってtechnicに座を奪われつつある。またインターネットのチャットではyouはしばしばuと書かれる。このように文字は音を追いかけるように変化していくので、音と文字が一致する期間は無いか或いは短い。

 綴りと読みが一致しないのは不便である。したがって表音文字圏では正書法というものが常に意識される。漢字の書体とは違い、原音に合わせてどう正しく表記するかというのが問題である。そこには美観もさることながらまず整合性・合理性が重視される。正書法が確立すると暫くは音と文字が概ね一致する。

 英語に比べてドイツ語の表記が音に忠実なのは、ドイツ語の正書法のほうが遅れたためである。更にフィンランド語の文字と音がドイツ語より一致するのは、フィンランド語のほうが正書法の確立が遅かったからである。どこの国でも近代化に伴い正書法が確立していったというのは、表音文字圏における正書法の重要性の高さを示す傍証である。

 正書法というのは要するに音と文字のタイムラグから生まれる。音の変化に文字が付いていかないことが読みと書きの違いを生み、ひいては正書法という概念を生む。このタイムラグはいかなる表音言語でも避けることができない。それは自然言語であろうと人工言語であろうと同様である。ザメンホフは1900年に「国際語思想の本質と将来」の中でこう述べている。

「大部分の言語の正書法は、学習者にとってじつにやっかいだ。…人工語は、あらゆる文字に、明瞭で厳密に規定され常に同一の発音を与えている。そのおかげで、人工語には、正書法問題はまったく存在しない。」水野(1997)

 ザメンホフはこのように述べているが、言語である以上、エスペラントも音と文字のタイムラグを避けることはできない。エスペラントと、近代になって正書法を得た言語は本質的に同じである。両者は正書法の制定とともにタイムラグを持ち始める。そして長い年月をかけて音と文字のタイムラグが開いていく。エスペラントも自然言語同様、時代が下れば正書法を見直す。それを食い止めるには音を一切変化させないことが必要条件だが、言語の変化を一切食い止めるというのは不可能である。


 さて、このような表音文字アルファベットの支配下にあった西洋で、人工言語における文字はどのような性質や意味や背景を持っていたのであろうか。東洋では漢字を基軸とした文字が作られた。仮名文字は漢字を元に作った文字である。ハングルは漢字を社会的背景として作られた先験文字である。人工文字にも先験後験がある。仮名文字は世宗のように誰かが意図的に作ったものではないため、後験文字ではなく自然文字である。

 西洋における人工文字はアルファベットの支配下だけあって、見事にアルファベットの影響を受けている。まず、各国語のそれぞれのアルファベットはアルファベットのヴァリアントであり、いずれも自然文字である。一方、アルファベットを元にした後験文字はたとえばキリル文字である。キリル文字はロシア語などのスラブ諸語を表記するための文字であり、ギリシャアルファベットを参考にした文字である。キリル文字はキュリロス・メトディオス兄弟の考案によるものであり、文字の名前も彼の名を取っている。キリル文字は人工文字の一種で、後験文字である。ハングルと異なるのは先験文字でないという点である。

 アルファベットは非常に簡単な造りをしているため、加工がしやすい。しかも表音文字なので文字の数も少ない。したがってヴァリアントを容易に作ることができる。その結果アルファベットの後験文字は多く存在する。表音性を保ったままアルファベットの形だけ変えればそれだけで暗号が出来上がるので、表音文字は暗号用に加工しやすい素材でもある。たとえばレオナルド=ダ=ヴィンチは鏡文字を用いて文章を書いた。鏡文字は仮名文字と違って自然とできていったものでなく、ユニークなアイディアの持ち主の思いつきによる暗号や遊戯である。この場合、元となっているのは明らかにアルファベットであるため、アルファベットの後験文字といえる。


 今度は中東に目を向けて見る。中東はアジアともヨーロッパともつかない文化の交差点である。西洋と東洋の要素を兼ねそろえつつ、しかも独自の文化を持っている中東は文字に関しても面白い歴史を与えてくれる。文化の交差点であるということはそれだけ自己の文化が他者の文化に侵食されているということである。海に囲まれた日本とは明らかに異なった環境である。

 たとえばトルコはトルコ語を使うが、その表記には伝統的にアラビア文字を使用していた。ところが20世紀前半にケマル=アタチュルクが台頭すると、彼は教育改革を推進した。その中には言語の改革も含まれており、それまで1000年ほど使われてきたアラビア文字を廃止しようとした。代わりにアルファベット表記を採用した。

 ここで重要なのが、アタチュルクはアルファベットをそのまま利用したのではなく、ラテンアルファベットを元にトルコアルファベットを作ったということである。つまりは後験文字の作成である。東洋西洋の要素を持ちながら自己の文化を混ぜ合わせるオリエンタルな手法である。トルコアルファベットは母音が8で子音が21の合計29文字で、ラテンアルファベットとは別物である。

 アタチュルクは世宗と異なり、単に読み書きを簡単にしようとしたのではなかった。ハングルとトルコ文字を後験・先験のみの違いに帰着させるのならばそれは早計であろう。トルコアルファベットと同時に推進されたのはアラビア語やペルシャ語由来の外来語を排斥することであった。文字とともに語彙も確立したわけである。そしてそれはトルコ人の精神面における独立を意味した。トルコアルファベットという人工文字の裏には民族及び国家のアイデンティティが隠れていた。

水野義明(1997)『国際共通語の思想』新泉社pp.50-51


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