普遍言語の成果



 ところで16, 7世紀の普遍言語論争時代には様々な普及型言語が作られたが、実際それは役を果たしたのだろうか。比較的成功したのはウィルキンズであろう。彼は存命中からそれなりの大きさのコミュニティを形成していたし、ダルガーノらに比べてより精巧な分類表を作るに至っている。更に自身の死後もその仕事が継承されている。分類や分析を素地とした哲学的言語として隆盛を極めたのはウィルキンズであろう。しかしそのウィルキンズの文字でさえ書きにくい、読みづらい、覚えづらい、間違えやすいなどの批判が相次いぎ、共通語として日の目を見ることはなかった。

 こういう大きな目論見が敗れた結果、悲観的になった社会の関心は薄れていった。更に17世紀の終わりごろはフランス語が西洋に普及したため、個々の土着語による混乱をなくすという目標が減じてしまった。それゆえ共通語に対する意識自体が薄まっていた。ウィルキンズのような大業にもかかわらず普遍言語が実用されなかったこと、そしてフランス語の共通語化の波に押され、徐々に普遍言語としての人工言語は熱が冷めつつあった。そのため18世紀は前世紀と比べると普遍言語は下火で、事実上普遍言語論争はほぼ幕を閉じていた。あとは散発的な炎が灯っては消えただけである。

 18世紀中葉のデュードネ=ティエボーは普遍言語がいかに有益かを説き、300ほどの根―語を選ぶことで己の言語の語彙の分類表が作れると述べた。しかしこれは単なる17世紀の焼き増しに過ぎない。

 17世紀の焼き増しはこのころ非常に多く行われた。ドロルメルは分類に基づく哲学的言語を作ったがこれはウィルキンズのような分類方式にライプニッツのような計算方式を組み合わせたに過ぎない。だがこのようなかけあわせを用いたところは面白い。また、ウィルキンズの難しい普遍文字の代わりにアルファベットを使った点も興味深い。単にアルファベットを採用しているのではなく、発音に使わない文字は捨象した。こういったことはヒルデガルトのころから行われていたことであるが。掛け合わせや改良アルファベットという点を見れば、単なる焼き増しというよりは過去の言語の改良版といえるだろう。

 18世紀も終わりに近付くと哲学的言語への挫折を社会は認知していたため、作者の断念も相次ぐ。コンドルセはライプニッツの手法を参照していたが、未完のまま挫折した。こういった中でド=メミィユの成功は異例の事態であった。18世紀の終わりに『パシグラフィー』と名を変えた要するに普遍文字計画が出版されると、これは一躍時代の寵児になった。それはやはりウィルキンズのような複雑な文字であった。基本的に12文字しかないのだが、その組み合わせのせいで複雑になる。また、西洋で既に定着していた句読法はそのまま採用された。普及しているものをそのまま使うのは学習者の負担を減らすので合理的といえよう。また、語彙のレベルを3段階に分けたのも実践的である。科学的な分類ではなく実用における頻度や難しさのレベル分けである。すなわち機能語のような頻繁に使われるレベル1、日常語のレベル2、学術用語などのレベル3である。尚、これはそもそも書き文字として作られたが、読むためのパシラリーというのも後になって作られている。

 パシグラフィーはフランスで特に流行り、ナポレオンに献呈され、芸術学校で実践され、一部で教育も行われた。その点ではこれまでの普遍言語の中では際立った存在といえる。尤も、パシグラフィーはウィルキンズを髣髴させるだけあって批判点も類似している。結局パシグラフィーの隆盛は一時的なものでしかなかった。皮肉なことにメミィユのパシグラフィーにおける分類はウィルキンズのものより粗い。それがひと時の成功を得たのは言語政策の俗化によるところが大きい。宣伝を多くしたことも理由のひとつである。また、それまでの普遍言語が主の祈りなどを翻訳していたのに対し、俗化した文を訳したことも受け皿を広げたことに繋がる。つまり哲学的な完全性や純粋性が失われ、逆に世俗性が高まり、その政策の巧さからパシグラフィーは広まったといえる。これは人工言語の普及が完全性や合理性では説明付かないことを物語っている。人にとって受け入れられやすいかということが普及に関わっている。この点を意識した人工言語総体は徐々に哲学的な性質を脱ぎ去り、社会学的な性質を負うように変化していく。


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