文化論
通時論で見たように歴史的にはそれぞれの文化を反映する人工言語というものは無かった。細かく見ればダルガーノのように同じ対象を別の名で命名しわけることもできる言語もあったが、元々異文化を広く表せるように設計されたというわけではない。その原因は西洋人の世界観にある。普遍言語時代にせよ国際語時代にせよ西洋で起こった運動である。確かにこのころ既に西洋人の世界観は地球規模まで広がっていた。西洋とアラブとアフリカしか知らなかったような時代ではない。しかしそれでも文明の中心は西洋にあった上、人工言語の運動が西洋で起こったともなれば、人工言語が西洋中心に作られることは当然であろう。
ところで前述したとおり言語と文化と風土は不可分である。不可分であるといってもイギリスで発生した言語をオーストラリアで使えないという意味ではない。言語は実に柔軟な代物である。ただ変化のたびにその言語が使われている環境から影響を受ける。オーストラリアで使えば当然そこにいる動物の名前を表す単語ができるだろう。これは日本語でも同じである。仮に日本人が全員イヌイットの地で暮らしたら、やがて「秋の日はつるべ落とし」といった慣用句は絶滅するだろうし、「五月雨」「梅雨」といった語も文献の中に残るのみになるだろう。その代わり元々日本に無かったような様々なバリエーションの雪や氷の地形などの略語が生まれるだろう。言語はこのように環境に適応する非常に柔軟なものではあるが、必ずその柔軟さの影に文化や風土などの環境が控えている。
歴史的に見ていままでは西洋中心の人工言語界であったため、人工言語は西洋的なものが多かった。エスペラントやヴォラピュクを祖とする国際語の系譜が好例である。ウィルキンズらの百科分類を用いても通時論で見たとおり西洋の観点で分類がなされていた。西洋を前提とするのは言語面だけでなく文化面や風土面にまで及んでいた。たとえば兄弟の長幼を言語面で気にしない英仏語などの文化がそのままエスペラントにも現われている。また、actor, actressのように男女を一々気にする西洋語の文化を反映して、エスペラントも女性接辞の-in-を持つ。更に言えば男性無標というのも西洋の価値観である(勿論西洋以外でも男性無標は存在するが)。至るところに西洋の文化風土が根ざしているため、そういった言語は非西洋圏には扱いづらい。その不平等は西洋が世界の中心であるうちはまだ我慢されていたが、アジアなどが台頭してきた前世紀末および今世紀においてはその不平等さが顕著に意識されるようになった。そこで特に普及型を中心にどうにかして文化の違いを乗り越えられないかという議論が勃発し、作者は打開案を捻出した。文化の違いを乗り越える計画は新しいものではないが、それを地球規模で実際に取り組んだのは特に20世紀後半以降の話である。
そういう流れで歴史的必然として生じてきたのがたとえば西洋だけでなくアジアの言葉を混ぜた人工言語である。これは参照言語を増加させた後験語と定義される。参照言語を増やす言語の性質とは何か。まず利点は、特定の狭い地域を参照にすることがないため広範に受け入れられやすい点である。この利点は言語面より精神面、つまり学習者がその言語を受け入れようとする精神に関わるところが大きい。欠点は広範に言語を参照して文法を折衷すると整合性のない文法ができる点、語彙の流入元が増えるので学習者にとって知らない言語から単語が作られやすい点である。
特に後者が問題で、たくさんの言語や知られていない自然言語から流入すると事実上の後験性が薄くなる。水という単語をフィールドワークも殆ど入っていないような言語から後験的に取り入れても学習者にとっては先験的にしか見えない。ラテン語のアクアは仏教を通じて日本語のアカになったが、よほどこれを根拠に水をアカとしたほうが理解されるだろう。尤もこれは分かりやすくするための極端な例で、実際そうする人はいない。だが広範に参照言語を選ぶということは学習者にとって馴染みのない単語から流入する確率を増やし、後験語である意味を薄めてしまう。これが欠点である。
他方、作者が捻出したものは他にもある。上記は後験語による打開策である。先験語による打開策はたとえばピクトグラム系では同じ普遍文字をそれぞれの母語で読ませるという方法である。自然言語のほうが分かりやすいので漢字を例に取ると、たとえば「国」という文字は日本語では「コク」で中国語では「クォ」で韓国語では「グク」である。音読みだけとっても既に音がそれぞれ違う。カンコクのことをハングクと言われたら我々は何のことだか分からない。しかし「韓国」と書かれれば分かる。また、ミズのことをムルと言われたら何のことか分からないが、「水」と書かれれば大雑把には意思疎通ができる。このように読みはそれぞれ違っても字が共通していればそれぞれの母語の読みを保ちつつ意思疎通が図れる。こういうのはピクトグラムが得意な分野であり、着想としては普遍文字時代に遡るものである。尚、大抵この手の言語は現在では母語読みだけでなくその人工言語オリジナルの読みも持つ。喋るときはこの読み方を使えば音声面でも意思疎通が図れるというわけである。
しかしこの方法にも短所がある。ピクトグラムの読みを覚えないと会話には使えないという点。読みが規則的に決められている言語はウィルキンズのものと同じく類音の聞き違い問題に苦しむ。逆に読みに規則がないと単なる先験語だから漢字を覚えるのと同じくらい手間がかかる。つまり使いにくいか学びにくいかの選択肢を迫られる。折衷案を取ろうとして聞き違いを減らすほど、母音の追加が行われたり規則性が減ったりして学びにくくなる。ただ最も実践的なのはこの折衷案であろう。何より聞き違いの問題が酷くて使いづらい言語は普及の理念に合わないからである。がんじがらめでない緩い規則、聞き取りと発音のしやすさ。折衷によるこれらの実現が最も実践的であろう。
一方、表音文字の先験語はどうか。ピクトグラム系の打開策は使えない。どうすれば地球上の多用な文化に耐えられるか。ひとつは文化をできるだけ漂白して平等を装う手段である。これは地球上の文化を全て折衷するというちゃんぽん文化を作る方法ではない。文化に関係なく概念を決める方法である。農耕文化と牧畜文化では作物や家畜の細分化の程度が異なる。そこで、あえてこれを徹底的に細分化しないという方法が考えられる。たとえば米はriceだけ、oxやcowは牛だけといった大雑把な区切りである。水とお湯の区別もなくwaterに一本化。兄弟もsiblingしか作らない。寒いところでも雪はsnowしかなく、局所にしか見られないオーロラなどの現象は方言として造語するか基本語の合成で作る。
こういった手法は要するに「世界の最大公約数」を得る手段である。細部の差異が漏れ、地球人としての共通部分だけが残る。そのレベルで命名すれば文化も風土も関係ない。なるほどこれは確かに実現可能である。ウィルキンズのように細分化に細分化を努めた百科分類の時代とはまるで逆で、むしろ粗い最大公約数を得るという方法で文化と風土の影響を殺そうとするものである。
ただ、この欠点はすぐ考えられる。言うまでもなく全ての地球人にとって平等に使いづらい。なにせ自分の文化や風土が反映されないのだから。そうなったら明日から妹と呼ぶのに一々「女で若いほうのsibling」と言わねばならない。これは面倒だし、かといってsiblingだけにして妹も兄も区別しないというのは日本人の感性に合わない。この使いにくさが最大の欠点である。
ではこの欠点を更に補強できないだろうか。実はある。そもそも異なる環境にある言語を全て一緒くたにしようという考えは不自然そのもので、社会的観点以前に不便さの点で世界中が同じ言葉を喋るというのは実現しない。英語が世界中に広まっても方言化するのと同じで、普及型の人工言語にも方言や位相を認めるのが実用的である。そこで各文化風土ごとに概念の細分化を設定する。日本語や中国語圏のために兄や妹を規則的に作る接辞を与えるか、そもそもそれらの概念を表す単語を作る。人工言語Lにおいて兄弟を表す基本レベルの語を仮にetuだとする。この大雑把さに違和感を覚えるのであればLの位相L’では接辞を用いて妹をetunなどとすればよい。或いはそもそも別の語根を取って妹をmeiなどとすればよい。そしてこの単語を長幼・性別を区別する文化圏全てに適応する。すなわち中国・韓国・日本は世界語としてのetuを持つと同時に、地域語として全て同一のetunないしmeiという語を持つようになる。3ヶ国語の「妹」という単語がまとまるだけでもそれぞれの言語の単語を個別に覚えるよりは楽である。このようにして方言を設定していく。要するに同じ文化の型を持つ言語には同じ区分で単語の設定をするわけである。ピクトグラムを持たない表音文字先験語にとって、これは文化ごとの差異を表す方法であろう。
尚これら3国の中にもetuという基本レベルはきちんと語根として残っているため、地球規模で使うとなれば意思疎通は可能である。日本人が日本語では姉と妹を区別しても英語を喋るときにはまとめてsisterというのと同じ感覚で、国内ではmeiといい、国際的にはetuといえば良い。恐らく基本レベルであるetuがL’のネイティブにとっては外来語のように映るようになるが、日常的に使わないのであればその認識でよい。
こうしていくと基本レベルと違う方言がたくさん出るのではないかと考えられる。だが恐らくそれは大きな数には昇らない。まず、品詞としては殆ど名詞に限られる。文化による差というのは最も名詞に表れやすい。動詞については殆ど文化差はない(語法差は当然あるが、それは自然言語であろうと人工言語であろうと同じ。)
「行く」などの概念が文化によって決定されるとは到底思えない。行くとgoの違いは語法差にあるが、この語法差は文化によってできたものとは考えづらい。対象言語学では「来る」とcomeを対照し、視点が起点に置かれるか終点に置かれるかの違いを論ずることがある。それを以って日英の視点の違いを述べることがある。だがこうした見方の違いの原因を文化に帰することはできないし、できても極めてこじつけに近いと判断されるだろう。comeの見方自体が英語の物の見方になって新たにひとつの文化を形成するということについては否めないが、comeそのものの語法がイギリス文化を背景にしているとは言えない。
動詞について文化が出るとすれば調理動詞などであろう。穀物は煮て繊維を柔らかくしないと食べられないものが多いので、穀物ばかりで生きている風土にあれば煮る系の動詞が細かい可能性がある。肉を一切食べないところでは焼く系の動詞が細分化されにくい可能性がある。だがこのような動詞の例は珍しい。
形容詞についても同様で、熱いや寒いなどはどの言葉にもある感覚であろう。ある概念を形容詞に当てるかどうか言語によって異なるが、いずれにせよ「熱い」などの形容概念を持たない言語はないだろうから、これも文化が関わるものではない。文化が関わるとすればたとえばワビサビなどの特殊な感情に限られる。したがって一般的な感覚や感情を定めておけば形容については概ね問題ない。
機能語については更に普遍性が高いため、大きな問題は生まないだろう。そうして見ていくと名詞に主に気を付けていれば良いことになる。また、この名詞というのもあくまで基本語の範囲内であることが多い。米、牛、妹など、どれも基本語である。パソコンはどこでもパソコンのままで困らないだろうから位相差を付ける必要性を感じられない。スピーカーやウィルスや肺塵病についても同様である。そう考えると基本名詞に位相差を付けていけば概ね問題ないということになる。
したがって世界の最大公約数を得た上で、基本名詞に位相差をつければ良い。方言化されるのはそういった一部の語だけになるので、文化差を付与しながらmeiと言いつつ国際語のetuを覚えるという作業はそう大変なことではない。それに国内および同じ文化の型の中で使う分には自分の文化の型の語だけを使えばいい。たとえば日本でいえば中国、韓国といった比較的広範囲でmeiだけ知っていればいいことになる。各国語の違いを覚える必要はない。
確かにこの欠点は自分の文化の型と異なる単語を覚えなければならない点である。しかもその単語は基本語名詞を中心とするため頻度が高い。だがそれでも恐らく長所のほうが大きい。Lの持つ単語数がnだとしてもL’の単語数n’個分の新しい語を覚える必要はない。基本名詞を中心に追加で覚えるだけである。高級語や機能語や用言類に関しては同じなので難しい話をすればするほど国際的に通じやすくなる。国際的に話をする必要があるのは概ねビジネス等においてであろうから、この性質は有利に働く。
さて、ではこういった言語Lを具体的にどう作れば良いだろうか。まずは世界の最大公約数を取って機能語、名詞、動詞、形容詞などを決める。最大公約数なのでその数はそう多くないから作りやすいだろう。この分類は作者によって異なる。ウィルキンズとダルガーノが同じオックスフォードにいながら異なる分類の細かさを持ったのと同様である。尚、単語は先験的に作っても後験的に作っても良い。その後はベネディクトの文化の型の実践ともいえよう。各文化の型ごとに基本語名詞を命名し、文化の型ごとに振り分けていく。たとえば「イモウト」や「メイメイ」をmeiと定めるように。meiのような語を選ぶときも先験でも後験でも構わない。実際このmeiというのは中国語から取った後験語である。
さてここでetuのような語を国際単語或いは共通単語と呼び、meiのような語を位相単語と呼ぶことにする。辞書を作る際、両者は別々の項に載せ、しかも位相単語のほうに共通単語の見出し語を付けてリンクを貼っておくと良い。それによって位相単語の有標化が実現され、共通単語との違いが明瞭になる。普段は共通単語と位相単語の混成で喋り、国際的な場では共通単語を使えば良い。妹という語もmeiではなくetuの合成語を使って論理的に示す。
こういった言語作りをすれば文化の差を出しつつ普及にも耐えうる言語ができる。だがこれはあくまで「こうすれば文化差別感が無く、それでいてそれなりに使いやすい」言語案にすぎず、これで普及が実現できるわけではない。相変わらず七面倒なことに変わりないし、恐らくこんなものを学習するのであればエスペラントのような自然言語の模倣を選ぶのが人情だろう。そう、実際人工言語で使われやすいものは取っ付きやすいものなので、普及を考えるなら言語のシステムなど見ないほうがいい。英語など既に広まっている言語を独自に簡略化した「人工ピジン」のほうがよっぽど広まりやすい。今で言えば英語の贅肉をそぎ落としつつもオグデンのベーシックイングリッシュほど痩せこけていない程度の改良英語を作って広めるのが最も成功の可能性が高い。そのせいで「英語帝国主義」や「英語の猿真似」と呼ばれるのは必至であるし、そもそもどう頑張ろうと本物の英語のほうが先に広まってしまうのだが、それでも七面倒な「文化的平等言語」を持ち出すよりは普及しやすい。
人間というのは実に勝手なもので、「帝国主義」「文化統一主義」などと批判しておきながら、実際学習する段階になると自己の経済的利益を考え、より自然言語に近い人工言語を選ぶ。いや、それ以前に英語そのものを学ぶだろう。ここで述べた「文化的平等言語」は17世紀の普遍言語の哲学性に20世紀の国際語の利便性を混ぜて作った思想的な産物であり、普及には向かない。繰り返すが、普及は社会的な要素で決定するので、文化的平等を掲げて文句の出ないようにしたところで、一部の人間の精神には歓迎されようとも、広く普及されはしない。人間はたとえ七面倒でも金持ち力持ちの言語を習得するものである。
しかし普及型で見なければ話は別である。こういった言語は哲学的な作品としては17世紀と20世紀の異なる歴史を昇華させたものであり、文化的平等・グローバリズムで見ても興味深い作品である。ウィルキンズ・ザメンホフ・ベネディクト・ソシュール、更には現代言語学のフィールドワークの成果、インターネットなどによるグローバル社会――こういった要素が揃って初めて成しえる言語であるから、過去にはこれと同じクオリティは実現不可能であった。確かに広まることはないが、普遍言語の性質も国際語の性質も備えている。恐らく今後はこういった歴史を踏襲して昇華した言語が創造されるであろう。尚、このタイプの言語は基本的に世界の最大公約数を求める作業で分類的になりがちであり、それゆえ先験語になりやすい。しかし語彙や文法を自然言語から取れば後験語に属することを加えておく。
このように地球の文化を型ごとに分け、文化を反映した上で人工言語を作ることができる。位相単語は当該の自然文化を反映しているので、この人工言語は特定の文化を参照している。したがって新生人工言語である。
一方、自然文化でなく人工文化から人工言語を作る方法もある。先の方法はまず世界中に最大公約数的な共通単語を割り当てた後に方言として位相単語を割り振る方法であった。最初に粗く全体を決め、その後細かい部分を決めるという上から下へ向けての作成手順であった。今度はそうではなく、ゼロから文化を創造するという方法である。恐らくこれは最も難しい。もはや言語の範疇を越えているからである。文化とともに風土も作らなければならない。無論このようなものは実際には地球に存在しないわけだから架空である。小説の世界を作り込むように架空の世界を細かく作りこんでいく。それには膨大な知識と時間が必要である。そのため最も実行の難しい言語である。しかしオリジナリティにおいては最高のクオリティを有する。普及型としては役に立たないが、演出型や符牒型としては最高の品質を有する。
このタイプは人工文化という特定の文化を持つため、非常にエゴが強い。前述の文化平等主義は「最大公約数を求めた上で個々の文化差を表す」という意味で平等であった。しかし人工文化の場合は「どの自然文化にも依存しない」という意味で逆に平等である。つまりどの民族の文化にも肩入れしないという点において平等である。前者が融和的な平等ならば、後者は独立独歩による平等である。アプローチは異なるが文化的に平等という点では変わりない。ただ、後者はエゴが強い。それゆえ逆に演出型・符牒型としての強い機能を有する。前者はエゴが弱いのでこれらの機能は薄い。
以上、文化平等主義の観点から新生人工言語を2点見比べた。新生人工言語は特定の文化風土を参照とする言語なので、平等主義でなかろうと一向に構わない。日本を参照にすると明言した上で言語を作れば新生人工言語にはなる。文化を規定しているので学習者はその文化についての既存の参考資料を使うことができる。新生人工言語は文化平等主義の方法を使わない限り特定の文化に依存してしまう。しかしそれは普及型の理念に反する。では普及型が取りうる新生人工言語は無いのだろうか。その返答としてあげたのがたとえば文化平等主義による新生人工言語である。
21世紀になってますますグローバル社会が実現していくにつれ、文化差が意識されるようになった。言語の普及は力関係でなされるので、いかなる人工言語も英語の代わりを務めることはできない。だが普及以外の観点、特に哲学的思想や芸術的嗜好の面で見れば人工言語は機能を有する。ネットなどの情報網や飛行機などの交通網によって狭くなった現代はかつては存在しなかった諸学門の新たなデータまでも利用できる環境にある。こうした中で、現代は新たな種類の人工言語が生まれることが推測される。また公開手段も従来の自費出版からネット公開などに変わり、旧態は劇的に変わるものと考えられる。グローバル化したせいでかえって意識してしまった文化の違いを哲学・芸術上の問題としてどう解決するか。これが現代における人工言語学の展望であろう。はっきり述べる。21世紀の人工言語は17世紀・20世紀の焼き増しには留まらない。当時無かったものが現代には在り過ぎる。これだけ異なる環境でただの焼き増しに留まるというのであればそれは早計である。時代は動く。歴史は繰り返す。だが学問は常に進歩している。
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