月刊言語11月号レビュー
日本で人工言語について取り上げた本や雑誌は希少です。
大修館書店月刊「言語」2006年11月号に「人工言語の世界」が特集として組まれました。
当サイトは残念ながらお声をかけられませんでしたが、担当の方から丁寧なご対応をいただきました。ここで改めて御礼申し上げます。
言語に組まれて載るのが学生時代からの夢だったので、挨拶ではなく本当に残念に思っています。
この記事を読んで人工言語を検索した結果当サイトにいらっしゃった方もいると思います。
そこで、ここでは11月号の記事について所感を述べます。
全体の構成として「人工言語」を広く全般的に扱っていました。
コンピュータ言語や記号論理学なども含まれていました。
これらは当サイトの対象ではありませんので、何かを述べることはできません。
「普遍言語よりIT社会へ愛・知をこめて」浜口稔氏p20
「人工言語学」を彷彿させる内容だった。p20-26では人工言語史について何とも綺麗にまとめてある。
注3に『英仏普遍言語計画』を挙げているが、前半の人工言語史とその黎明期については特に自身の訳書を上手くまとめてある。
この本は長く難解なところがあるが、この記事ではその中から要点を切り取っていて、非常にためになる。
後半までは主に17世紀について。エスペラント以前の話が中心で、人工言語の源流からきちんと説明してある。
「人工言語=エスペラント」という公式を持つ多くの読者にとっては将に開眼的。
但し、のっけから通時的・哲学的な記事が来るため、即物的な後験語に慣れた人や人工言語の初心者を面食らわせないか懸念される。
とにかく人工言語をやるなら読まなければならない本というものを上手くまとめてあるので、一読どころか「4読べき」
読者への参考点としてひとつ。p23下段は唯名論と実在論との対立を描いた普遍論争について、ジャーゴンを抜いて説明してある箇所だ。
この議論はプラトンに遡っているが、実際はこの時代の論争を表したもの。そしてこの論争に白黒は付けがたい。
その背景を知らないと、この段落がなぜここに設置され、なぜ筆者が議論を放棄するかのような態度を取っているのかが分からなくなる。
また、私見を2点。p24下段l11「バベルの塔を再築造せんばかり」について。
真正文字を巡っては、バベルの塔を再建して人類の祖語たるアダムの言語を再築しようという神秘主義の一派があった。
他方、アリストテレスの範疇やベーコンを源流とする哲学的な一派があり、彼らは万物を体系的に分類しようとした。
本文のこの箇所で問題にされているウィルキンズはむしろ後者に属するので、こう書いてしまうと前者に属するように読まれかねない。
これは瑣末なことだが、この区別を巡って彼はウェブスターを批判しているため、彼の亡霊へ寄せて述べてみた。
p26上段終わりから下段始めまで。将来できるかもしれないものにも対処できるシステムを作っておくことについて。
これがウィルキンズの狙いと書いてある。だがウィルキンズは最上位の範疇から下位に向かって分類していく分析魔だったと思う。
将来に対応可能な演繹的なシステム、言い換えればボトムアップ方式は、むしろライプニッツの好むところではないだろうか。
私の私見に過ぎないので以上は放置して構わない。いずれにせよこの記事は価値が少しも薄れることの無いほどに良くできているのだから。
「エスペラントに文学は可能か」渡辺克義氏p48
表題を見て最も悲しくなった記事。人工言語の代表格であるエスペラントでさえ世間の認知はかくもむなしいものなのか。
文学など勿論可能であるし、人間は感情さえ人工言語で覚えることができる。たとえエスペラントのような後験語でなくとも。
エスペラント訳はニュアンスを殺すという批判に対し、北條文緒を引用した後、
「腐っても鯛」という訳が文脈でたとえしっくりこようとも、英米文学の訳中に出てきたら違和感を覚える――
と返しているが、これには私も「首肯」できた。
そのまま一歩突っ込んで「エスペラント独自の文化や語法を」という議論になってくれていたら、尚4回くらい首肯しただろう。
全体としてエスペラントに対する偏見と攻防している記事。中核となる主張はエスペラントに文学は可能だという事実。
その傍証として韻を踏んだ詩を載せたり、著名人による作品がないと言われれば著名人の名を挙げる。
p54下の「権威」への「拘泥」というくだりを見ると、批判に対する筆者の反感が見られ、それには私も共感できた。
批判に対して「こんなのもあるよ」という感じで傍証を挙げるため、論争としては防衛戦の様相。
p54-55に至る、エスペラントで書く人間の精神の分析は非常に興味深い考察。
「ピクトグラムと世界共通語」太田幸夫氏p56
表意文字を作りたい読者は将に必見。
p57ではピクトグラムの特徴について簡潔にまとめてある。
p59後半からが表意文字を持つ言語の作者にとって真骨頂。
絵ことばLoCoSの方法論から学ぶことは極めて多い。
普遍言語の視点で見るとLoCoSには弱さがある。
たとえばp62の図9は実用可能な文にするには改良の余地がある。
なぜ示し合わせたわけでもないのに人類の文字は1文が何行にも膨らんだりせず、
横なら横へ1行まっすぐ、縦なら縦にまっすぐいくのか。
言語の作者としてはこういった視座でLoCoSを分析し、あるべき表意文字の体系を考えると良い。
筆者がp62-63で明確に答えているように、その答えはゲシュタルトとしての認知の容易性だ。
演繹ではなく帰納に至れとは将にその通りで、運用を目指すのならばLoCoSにとって避けて通れぬ道だろう。
逆にいえば演繹手段に関しては円熟しているということでもある。
今後は帰納へと駒を進めようという筆者の論調は非常に前進的。
尚、こうしたピクトグラムについてはヤンソンの「ピクト」、エッカルトの「サフォ」らが併置される。
エーコ(1995)『完全言語の探求』平凡社255pp.
↑詳しくはこちら。LoCoSについても言及あり。ピクトグラムに対して強い批判と問題点の提起をしている。
*ところで(図9)は本文中のどこで参照されているのだろう。アンカーが見当たらないが……。
「フィクションと言語創造」新島進氏p70
ファンタジーから語りに入っているので非常に読みやすい。これが巻頭寄りにあれば読者にはユーザーフレンドリーだったはず。
現代ファンタジーのご都合主義を容認し、異星人が英語で話すのはおかしいと批判する人間を「偏屈」と切り捨てている。
その上で「でもそんな偏屈な時代があったのだよ」という流れを作り、本論に入っている。
簡単なファンタジーに始まり、「偏屈」を軸にした現代との対比を行い、難しい通時的な本論へ入っていく。文の読ませ方が巧い。
17世紀の架空言語を中心に述べている。後験語としての架空言語がどのような起こりで生まれたかを見るのに適している。
ゴドウィンらを時代の潮流に乗った者と捉えている。そしてトールキンを良い意味で異端児扱いしている。
哲学面だけでなく、経済的な当時の歴史的背景がゴドウィンらの後験性架空言語を産んだことについて触れてくれればと思われる。
この記事を読むと、隆盛を極めた後験性普遍言語エスペラントとの対比を想起させられる。
ライプニッツらの哲学的言語と後験性架空言語は生まれも育ちも実際は異なるのであるが、結果的に非実用物という点で共通する。
ザメンホフらが完全な言語を作るよりもむしろ広めるための言語を作るにはどうすれば良いのか考えた際に、
ライプニッツらやゴドウィンらといった先哲の遺産は確実に有益だったはずだ。
「人工言語と自然言語」金子亨氏p80
人工言語の総論的な記述がある。コンピュータ言語なども説明に含めているので、目録としての機能も持つ。
紙幅から考えるとかなり広範な内容を盛り込んである。
冒頭はエスペラントと人工言語に始まり、中盤はコンピュータ言語に及び、終盤は自然言語との対比を行っている。
エスペラントの批判を明らかに行っており、p85で自然言語と関わることはないだろうと述べている。
一方、p85「自然言語に、実は」の段落は非常に頷ける。
ただ、特集のタイトルからいえばこの段落は「人工言語のレーゾンデートル」へと話を進めてほしかった。
畑が異なるため、言語学への性向が随所に見られる。最終段落はそれをよく表していて、まとめとしての必要性があるか疑問。
最終段落の最終文は人工言語に対する誤謬や偏見が見られ、ふさわしい結びではない。
著名な学者を苗床の異なる壇上に引き上げてしまった印象がある。
「ノシロ語」水田扇太郎氏p44
4ページの紙幅で精巧に起源から概説までまとめてある。
p45で国際標準単語の少なさをおのずから述べている点が実直。
p44第2段落に関して。これまでの西洋偏重の人工言語はつまるところエスペラントを代表とする人工言語のこと。
それに対して、「アジアから」ノシロを作ったとあるので、「アジアンテイストなエスペラント」という印象を受ける。
だが実際、作者はそのことについて否定しているので誤解をしないようにされたい。
これは「言語」の記事からは読み取れないことだが、インターネット上でその意思が確認され、私も自分自身で確認した。
作者は西洋偏重やアジア偏重を否定している。それはHPからも読み取れる。
国際語としてナショナリズムを否定し、西洋とアジアの融和を論じている。
他方、「アジアンテイストなエスペラント」に見えることについては、HPや「言語」を素直に読むとそう受け取るのが自然。
「アジアンテイストなエスペラント」というスタンスを受け入れるか、否定するか。それは作者次第だ。
否定するなら、HPや「言語」を読んだ読者が持つだろう誤った印象を未然に防止するための但書が必要だと思われる。
尚、記載されている国際標準単語が拡充されれば言語の性質が変わるため、
作者の厭う「アジアのエスペラント」が払拭されることを加えておく。
「地球語」マクファーランド・佳子氏p66
地球語ができるまでの流れと地球語の概説を分かりやすくまとめてある。
公式サイトでも学習可能だが、紙面で見るとより見やすく、内容もちょうど初学者に良い質と分量になっている。
この文字体系を見て上掲LoCoSを思い出さないものはいないだろう。
表意文字を志すならば必ず師事すべき言語だ。
地球語の真骨頂は重ね文字にある。
「神」の項は拙論でも以前全く同じ語を用いて述べたが、文化を見事に反映していて美しい。
LoCoSが抱え、記事で指摘されたゲシュタルトの問題を見事に解決している。
難点は、重ねが過ぎると字が詰まってしまって見辛くなるという認知上の問題だ。
重ねを少なくするには字母を増やさざるをえないだろう。
しかし字母を増やせば学習者の負担が増え、非言語による意思疎通手段も難易度が上がる。
そのため、どちらを選ぶのも辛い立場にある。
尚、ジェンダー社会に反比例して言わせてもらうと、作者が紅一点であることも特徴だ。
「エルフ語」伊藤盡氏p76
トールキンの『指輪物語』の言語。後験性架空言語である点ではゴドウィンらと同じだが、決定的に違う点がある。
作者の凄まじいまでの想像力と演出力からなる世界観がそれまでになかったリアルな異世界を作っている。
未知の大陸オーストラリアや未知の月世界といったレベルではない精巧な異世界。
それをこの時代に作ったというだけでも驚きだ。人工文化・人工風土の産声はトールキンにある。
つまり新生人工言語の産声は彼に始まるといってよい。ただ、彼自身がそう認識していなかったのが残念でならない。
この記事はエルフ語ができるまでの苦悩の経緯から、エルフ語の位相までもを説明している。
位相を持った人工言語という点でも彼の偉業は並外れていたと言える。
記事ではクウェンヤとシンダリンについて触りを学ぶことができる。
また、何より面白いのは両者の文化的な比較を行っているところだ。
まとめ
「言語」が特集を組むと皆が同じテーマで記事を書くのだから、どうしても話が似てしまうことがある。
その結果、偶に参考文献が重複することが起こる。
去年の同じ月のようにテーマが「感動詞」だと問題はない。
テーマ自体が広範に研究されているため、そうたくさん重複することはない。
一方、人工言語はそうではない。なにせ「美しい日本語」「正しい国語」のように、言語学の対象ではないからだ。
言語学の対象とされないテーマを記事にするのは大変で、書くのも大変だ。
今回の記事を読むと分かるが、特に人工言語史を扱ったものに関してはまるで示し合わせたかのような人工言語史観を呈している。
それは資料が少なすぎるからだ。記事を見れば参考文献が分かるくらい少ない。これが人工言語界の問題のひとつだ。
たとえば人工言語史についていえば『英仏普遍言語計画』や『言語の夢想者』や『完全言語の探求』などを資料とするのが通例だ。
というよりも、他に便利な概説書が殆ど無いというのが現状だ。
これら3書は人工言語の通時的議論を解説してくれるが、視点が決まっているのが問題だ。
どうにも哲学史に近く、言語学よりも哲学や思想としての様相が濃い。言語を作る視点から見ると実践的ではない。
どう作れば良いのかということを教えてくれる本ではないし、先哲がどうアイディアを捻出していたかを解説するのでもない。
勿論、読んでいけば先哲の手法は見える。だが、それについて解説はされていないので、読み手が手法を読み取るしかない。
視座が哲学・思想史の面に殆ど限定され、言語学や文化人類学の視座はあまりない。
また、経済や社会を視座にすることが少ないのも問題だ。
哲学的言語と架空言語の起こりの共通点と差異は何に起因したか。
人工言語史の考察にはもっと社会学的・経済学的な視座が必要だ。
そうでなくば当時息をし食事をしていた人間たちがどうしてその言語思想に行き着いたのかを真に理解することはできないだろう。
参考文献が声を揃えてそのようであるから、どうしてもそれを元にした記事も経済・社会を度外視しがちだ。
実際、今回の人工言語史についてもそれらの話題は部分的に触れられていた程度だった。
参考文献の少なさと視座の限定は今後の人工言語の課題だ。
ところで、通時的議論の何が作成に役立つものかという批判もあるだろう。しかし先哲が何をしたかを知るのは重要だ。
実際、人工言語=エスペラントと思っていた読者は今回の人工言語史を見て開眼的だっただろう。
エスペラントが生まれるまでにいかなる過程を踏んできたかということが書いてあったからだ。
もしこれをきっかけに16-18世紀の普遍言語論争を振り返ってみれば、いかに自分の捻出した言語案が既に考えられていたかを知るだろう。
合理的で学習しやすい言語のヴァリアントなど限られているのだ。だから先哲に学んでから作るのが上策だ。
ただ、我々現代人には先哲になかった利がある。それはグローバル化した地球に生きているということだ。
いまは情報がたやすく手に入り、自費出版せずとも気軽に情報を世界中に発信できる。
これはいかなる先哲も持っていなかった手段だ。
このアドバンテージが人工言語界を変えるのは間違いないとして、問題はそれをどう上手く使うかということだ。
人工言語のサイトが乱立するよりはリンクでまとまっているほうが読者に優しい。
自己の言語の紹介に留まった閉鎖的で作成者を育成する気のないサイトより、そうでないサイトのほうが読者には便利だ。
そうしたアドバンテージの使い方が本当に効果的かどうかは未知だが、少なくとも閉鎖的で入り込みづらいよりはずっと良い。
現代のアドバンテージをどう人工言語に使っていくか。これは引き続きの課題だ。
seren arbazard(人工言語学)
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