人工言語普及論
人工言語が世界で唯一の言葉として実用されること。 人工言語が国際語として採択され、英語の代わりとして国際的に機能すること。
この2つは、人工言語の普及という観点でいえば、最上級のレベルです。 そして、実現しません。 実現しない理由は新生人工言語論にて散発的に述べていますので、興味がある方はそちらをご参照ください。
しかし、やや低いレベルでの普及ならば可能だと考えています。 ここでは人工言語普及論について、実名をあげつつ具体的にお話したいと思います。
日本に人工言語の概念がもたらされたのは、事実上エスペラントが初めてです。 エスペラントは人工言語の歴史から見ればかなり後発です。 しかし、日本で人工言語といえばデフォルトでエスペラントのことを言います。
エスペラント独裁のまま20世紀が終わろうとしましたが、世紀末になってインターネットが興ったため、 個人が自分の人工言語をたやすく発表できるようになりました。 それまでは『ノシロ』のように自らお金を払って書籍として広告してもらう自費出版が自言語を公開する唯一の方法でした。 しかし、ネットが時代を変え、地球語やノシロといった言語が日本のネット界に登場しました。 (ノシロは出版にもネットにもまたがった、時代の狭間の言語でした)
ネットが台頭したとはいえ、このころはまだダイヤルアップ。重いデータのUL,DLはできませんし、ネット人口も少なかった。 ブロードバンドの時代になると、月々数千円の使用量で大容量のデータを発信することができるようになりました。 誰も人工言語を公開するためだけにネットに加入するわけではありませんので、 ネット代を人工言語の経費として計上することはなく、家計上はタダで言語を公開できる時代になりました。 その流れを受けて、ネット上で人工言語が多く公開されるようになりました。
ところが、それらの人工言語は散発的でした。それぞれの作者は互いの言語の存在を肯定も否定もせず、コミュニケーションを取らない状況でした。 コミュニケーションできない人が言語を作るというのは今考えればおかしな時代でしたね。
そんな散発的な人工言語をリンク集としてまとめあげたのが「人工言語野」です。 それでも個々の作者が参与してコミュニティを形成することはありませんでした。
その後、2005年に新生人工言語論ができました。 このサイトはアルカを掲載していましたが、自言語の紹介に留まらず、 人工言語の作り方や人工言語そのものについて論じた点が特徴的だったと思います。 人工言語野とも異なる趣向で、それまで日本にはなかったタイプのサイトでした。
私は人工言語の作り方を掲載し、掲示板などで言語作者の後押しをさせていただいた結果、 その作者たちとネット上で面識を持つようになりました。 彼らが自言語を公開した後も関係は続き、いつの間にか言語の作者・使用者・学習者などから成る小さなコミュニティができました。 以下は2007年3月現在の状況を反映しています。
コミュニティといっても非常に脆いもので、個々のメンバーは自分がそのメンバーであるという認識すらほとんどしていないと思います。 同好会以下のレベルです。 ですが、そんな小さなコミュニティでも「日本にできた複数の人工言語にまたがる集まり」としては初めてです。
また、人間の凄さというか、きちんとこんな小さな規模でもそれぞれ役割分担や個性があったりします。 アルカのセレン、トラブ語の黒田氏、ノジエールのGrar氏などが言語作者です。 録霊徒然草のKakis氏、2chねらーの魚楠氏などが言語の使用者や学習者やコメンテーターです。 人工言語野の「み」氏が、中心的存在で、すべての人工言語をまとめています。 また、彼ら以外にも強力な人材が集まっています。自然と分業できているところが社会的で興味深いです。
なお、企業ではないので、コミュニティのメンバー意識は極めて低いです。 また、このコミュニティは99%日本人で構成されていますが、一部韓国など、外国人の方もいるようです。
このコミュニティに名前はついていません。 黒田氏がKakis氏とのやり取りの中で名を作りはじめ、ほかのメンバーも便乗しましたが、ついぞ決まりませんでした。 多分、決まらないのはまだこのコミュニティが名前を欲していないからだと思います。 命名して他者と区別する必要性がまだないのでしょう。
とはいえ、名前がないまま「このコミュニティ」だと書きづらいので、ここでは暫定的に「ディレッタント」と呼んでおきます。
↓参照
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%EC%A5%C3%A5%BF%A5%F3%A5%C8
まぁ名前など実態を伴わなければ無意味なのでさておくとして、現状ではその名の通り、 人工言語という奇妙な代物に興味を覚える学究集団でしかありません。 これでは当然普及という面においては脆弱です。ではどうすればよいか。
先日、人工言語の普及の話題がトラブ語掲示板で起こりました。 以前から、いや、数世紀前から結論の出ていることなのですが、人工言語の普及は結局は社会的なものであるという話にまとまりました。
具体的にいえば、辞書や文法書などの必須アイテムは言うまでもなく揃えるとして、その上で何ができるかということです。 より具体的にいえば、その言語を使った小説や音楽や芸術などといったコンテンツの豊富さが重要だということです。 つまり、いかに好事家でない人間を引っ張ってくる強力なコンテンツを作るかということに終始します。
自言語を広めたいのなら、まずは人工言語という概念そのものを世間に認知させなければなりません。 現在メディアを発信する仕事に就いている身から申し上げると、人気は起こるものではなく起こすものです。 人工言語という概念を今以上に広めて土壌を作らなければ、自言語が広まるはずがありません。
というわけで、いかにして人工言語を広めるか。 上述のとおり、コンテンツの問題です。 国民的ゲームであるファイナルファンタジーにアルベド語が採用されたことで、 「人工言語」がネットで検索される件数が増えたと思います。強力なコンテンツに集客能力があることの証です。
しかし、ディレッタントはコンテンツメーカーではないのです。 例えば私に関して言えば、『紫苑の書』などといった軽薄な作品が関の山です。 どう頑張っても本物のコンテンツメーカーには適いません。
ですが、逆に言えば、そのコンテンツメーカーも言語作成という面においてはディレッタントに適わないわけです。 彼らはアルベド語にせよヨルダ語にせよ、人工言語を創れという企画を会社から受けたときに、迷わなかったのでしょうか? 『アディのおくりもの』という名作がPSにありますが、あの開発者は物凄い難産をしてアルカのアークパズルと同じようなゲームを捻出しました。 あれと同じで、企画を練るのは凄く大変なことではないでしょうか。 言い換えれば、世の中にはまだ「世界観の演出のために人工言語を作ってみたいが、自分には厳しい」 というようなコンテンツメーカーがいるのではないでしょうか。
彼らとは利害が一致しているように私には思えます。私たちが言語を提供し、彼らがコンテンツに載せる。 コンテンツメーカーである彼らが作るより本格的な言語ができるため、作品のクオリティも増す。 彼らの作品が流布されるごとに、人工言語という概念が流布されていく。 この循環を繰り返すことで、徐々に世間の認知度を高めることができます。
コンテンツメーカーと協力することで、人工言語が認知されていきます。 もちろん、それはとても小さな規模のブームですが、自言語が今よりずっと認知されやすい状況になります。
現在の日本では、「人工言語=エスペラント」です。同時に、「人工言語=知らない」でもあります。 この2つの認識を、「人工言語=人工言語」に変えるのは、どこの国のどこの人々でしょうか。
よく言うように、タイムマシンでヒトラーを生まれないようにしても別の誰かがヒトラーになったという考えがあります。 確かに世の中の流れが向いていれば、その理屈は正しいです。でも、その理屈は風が向いていない分野には適応されません。 人工言語は風が吹いていない分野です。焦点化されていません。日本における人工言語の認識が自然と変わることはありえません。
「誰かがやらなければ零細分野での革命は決して起きません」
日本は特殊な環境にあります。多言語社会でもなくネット環境も整っている。教育レベルも高い。世界規模で見ると稀有な国です。 世界にはたくさんの国がありますし、人工言語の歴史はいつも西洋に支配されてきました。 しかし、ユーロやドルが多言語・多宗教の環境下で国際語の視点から抜け出せない今、人工言語の革命が日本で起こるのは不思議ではありません。 いえ、むしろこういう国だからこそ、起こしやすいのかもしれません。
人工言語の歴史に何か刻めるとしたら、今のこのグローバル社会にあるのではないかと私は考えています。 それを行うのが人工言語後進国であった日本だとしたら、非常に面白いことだと思います。
日本には、はじめにエスペラントがありました。これは西洋人にもたらされたものです。彼らが革命を起こしました。 次にネットによって群小人工言語が離散的に発生しました。これはネットインフラによる革命です。 規模が小さくなりますが、次に群小人工言語をまとめた人工言語野が起こりました。これも革命です。
更に規模が小さくなりますが、新生人工言語論ができました。 言語作者が横並びにいくつか繋がり、閲覧者を数人巻き込んで、仮名ディレッタントがあやふやな姿で形成されました。 そしていま、私たちはここに立っています。
こうして見ると、いつも誰かしらが変えてきたんです。自然と起こったのではありません。 待っていても革命が起きないなら、起こすしかないでしょう。 普及型人工言語を選ぶということは、この旗を持って立とうとすることだと思います。
普及型人工言語を持たない私としては、何もないところに私なりのレールを敷いたつもりです。前よりは進みやすくなったと思います。 コンテンツの作成、コンテンツメーカーとの協力、人工言語そのものの認知。今はこれが人工言語普及論として行うべきことです。
私は自言語の普及には興味がないが、ディレッタントおよび人工言語界の広がりには興味があります。 これまでは言語作者が自言語を作ることを後押ししましたが、今後は法人や個人のうち、 人工言語をコンテンツに搭載させる目的で必要としている方を後押しします。
つまり、コンテンツメーカーとの提携を図ります。相談だけでなく、言語作成の委託受注もしようと考えています。 今度の相手はwould-beな言語作者とは限らないため、委託の可能性もあると考えた結果です。 ただし、普及型でない私が前面に出るのは良くないことだと思っているため、あくまでささやかに進めていきたいと考えています。