人工言語と思想団体
人工言語と思想団体の関係について述べる。ここでいう思想は宗教を含む。また、団体は営利非営利を問わない。
人工言語が思想団体と関連付けて想像されることは多い。 世界を国際語で結ぶという人道的な理由を掲げても、無知なる衆人からは、 「独裁的な言語政策により、人々の言語および精神を陵辱・支配する」と取られるからだ。 人工言語の代表であるエスペラントは20世紀の日本では赤と勘違いされて弾劾された歴史を持つ。 日本では20世紀末までは、とかく人工言語は思想団体を結び付けられることが多く、冷遇されてきた。
その後、20世紀末にオウム真理教を発端とし、日本の大衆には「宗教=危険」という印象が植え付けられた。 元々無宗教化しつつあった日本において、オウムらの件は宗教の地位を格段に引き下げた。 認知されるのはキリスト教などの大宗教のみとなり、新興宗教は聞くだけで怪しいものと考えるようになった。 さらに拍車をかけたのが21世紀の中東問題だ。大宗教のイスラム教でさえ日本人の中では「テロ」というイメージを持つようになってしまった。 大多数の敬虔な信者が最も迷惑していることだろう。
こうしてわずか15年足らずで日本の宗教観は劣悪なものとなった。 日本人は宗教に敏感になり、怪しげなもの、危険なものという意識をより強く持つようになった。 この背景において、人工言語は宗教団体とも絡めてイメージされるようになった。 とかく人間というものは怪しいものと別の怪しいものを絡めて考える癖がある。 結果、「人工言語が怪しければ、それは怪しい宗教と結びついているのではないか」という勝手なイメージが生まれた。 文字にすれば馬鹿馬鹿しいこの思考回路も、人間の心の中ではスムーズに構築されるようだ。
日ごろ、一般人は人工言語を話題にすることはない。飲み会などのネタで聞いたときや、少し難しい本で存在を知ったときに考える。 そのときに想像する勝手なイメージが上記のものだ。もしそういうイメージでなければ、 「国際語など、夢想主義でしかない」という認識を持つ。いずれにせよ、たいていはこのどちらかだ。 なお、後者の認識の方がまだ実情を捉えていて正当だ。
さて、ここまでで、日本人が人工言語に対して持つイメージを説明した。ここからはその誤謬がいかに実態とかけ離れているかを説明する。 大概、疑っている人間というものは、相手が必死に言い訳をするほど相手を信用しない。 疑う人間を説得するには、淡々と論理やデータを並べるのが一番効率がよい。
そこで、思想団体が人工言語と結びついていないことを背理法によって論証しよう。とはいえ、難しい話は避け、具体的な例を取る。 思想団体にとって人工言語が有効であると仮定し、それが矛盾すれば、背理法で論証できる。 簡単にいえば、思想団体にとって人工言語が有効でなければ、人工言語を政策に取り入れる必要はない。従って人工言語との結びつきはないといえる。
さて、思想団体というのは運営費を必要とする。団体の構成員が金満ならよろしい。だが、たいていはそうではない。 また、いくら金満でも収入にはかぎりがある。団体が大きくなれば運営費も膨らむ。それを個人が捻出するのは難しい。 よって、団体は商売をする必要がある。それは物品の売買でもよい。
だが、一部の団体は構成員から金を引っ張ることを考える。例えば、宗教が信者に壷を売って金を取るという構図だ。 構成員は社会人として働いたり、年金を受給するなどして収入を得る。そしてその金を団体が吸い上げるという方式だ。 団体は商売をする必要がなく、運営費を捻出できる。 こうなると団体の幹部に必要な能力は商才ではなく、カリスマだ。 カリスマによって信者から金を引っ張ることが彼らの仕事だ。
では、カリスマを信者に感じさせるにはどうすればよいか。 信者は宗教にすがっている。のっぴきならん事情があって、すがっている。 また、思想団体の構成員は団体の信条を信じている。この「すがり」や「信じ」といった要素があるからこそ信者らは金を出す。
従って、幹部は「すがり」や「信じ」を持続的に引き出さねばならない。では、それには何が必要か。 ここで、幹部はツールを使う。信者らを引き寄せるツールだ。 信者は運勢や健康や人間関係などで悩んでいるため、彼らの心をくすぐるツールを用意する。 開運の壷や札、健康になる水などがそうだ。
さて、信者らの心をくすぐるツールに人工言語が介在できるだろうか? つまり、彼らの悩みの中に人工言語は関与しているだろうか? ――否、ありえない。 人工言語は信者らを魅了するツールにはなれない。信者は一般人だ。言語に聡いわけでもない。 長年の持病を治したくて信仰している人間にとって人工言語に何ができるものか。 従って、幹部が人工言語を利用することはない。使えないからだ。
考えられるのは、人工言語で札にそれっぽい文字を書いておくようなことだが、これも恐らくは無意味だ。 一般人は奇妙な書体の漢字の方をよっぽど霊験あらたかだと考える。 また、よく分からない文字に霊験を感じる信者ならば、そもそも日本人が疎いアラビア文字などで十分だ。 わざわざ人工言語をでっちあげる必要はない。
言うまでもなく、人工言語で祈りなど教えたところで、彼らは発音できない。 古風な日本語で祈りを作った方がよほどありがたく感じる。日本語の祈りなら実践できるからだ。 また、異国情緒のある祈りを聞かせるだけなら、人工言語を作らずとも、 タモリがやっているような外国語風の呟きをテープに吹き込んでおくだけでよい。 意味は何かと聞かれたら日本語で適当にでっち上げればよいだけだ。
このように、信者らを魅了するツールに人工言語の介在する余地はない。 つまり、信者らから金を引っ張る目的において、人工言語は役に立たない。 さらに言えば、団体の資金繰りに人工言語は役に立たない。従って、思想団体が人工言語を利用することはない。
以上、バッサリ切ってしまったので、例外を添える。 資金が潤沢にあり、商売を行っている団体のうち、構成員を逃がさないよう閉鎖的な空間作りをしている団体は、このかぎりではない。 構成員から金を取る必要がないので、金を引っ張るツールとして人工言語を見なくてよい。 その代わり、このような団体は構成員を団体内に囲うために、わざと閉鎖的な空間を作る必要が出てくる。 (もちろん、1000社に1社もそんなことは実行しないだろうが)
そして閉鎖的な空間を作るために、人工言語は有効なツールとなる。人工言語には符牒型が存在するからだ。 会社や学校で符牒が仲間意識を高め、他のグループとの垣根を作ることは一般に広く見られる。 その程度を極限まで人為的に高めたのが、人工言語による構成員の囲い込みだ。 このような例では人工言語は有効なツールであり、思想団体にも用いられうる。 ただし、それには構成員の頭の程度が非常に高いことが要求される。
次に、このような団体の危険性について。閉鎖的な団体は一般に他者に冷たいが、攻撃的とはかぎらない。 この団体は自ら商売をしているので、裏の顔のほかに表の顔も持っている。 従ってあまり表立って危ないことはできない立場にある。また、資金を構成員から引っ張るシステムではないため、勧誘活動をする必要がない。 また、構成員の忠誠心が高いことを望むため、構成員の囲い込みを行い、他者から隔絶する。 そのため、構成員を庇護する傾向にある。企業がフルタイムで社員を囲い、2重雇用を禁じ、給与によって庇護するのと酷似している。 このような団体では、企業と同じく構成員は厳選される。信者のようにいればいるほどよいということにはならない。 言い換えれば、法人に近い性質を持っている。
よって、このような団体の危険性は少ない。そもそも勧誘活動を行っていないため、構成員と付き合いを持っても引きずられる可能性は少ない。 また、仮に関わりを持っても金を要求されることもない。構成員は厳選されるので、自意識過剰に囲い込みを心配する必要もない。 そもそも団体側が貴方をたいてい必要としていないからだ。
仮に危険性があるとするなら、その団体が表の顔でどんな商売をしているかによる。 風営法など、法律に引っかかっているのか。あるいは非人道的な商品を扱っているのか。 そういった違法性の程度が高いほど団体は闇に引き篭もるため、危険性が高まる。 しかしこれは人工言語云々以前に、ヤクザ絡みの企業など全般にいえることなので、 殊更人工言語の問題として取り上げる必要はなく、「単に危ない人たち」ということができる。
以上をまとめる。まず、人工言語は思想団体にとって信者らの獲得をするための魅力的なツールにはなれない。 従って、人工言語は思想団体と関連しない。思想団体と絡めて考えるのは誤謬だ。 次に、特殊な条件下の団体は人工言語と絡んでいるという例外がある。
だが、その団体が商売しているものが危険でないかぎり、その団体は危険ではない。 以上から、人工言語と思想団体は無関係といえる。 また、関係があっても売っているものが危険でないかぎりは健全だといえる。
なお、売っているものが危険なら健全でないというのは、人工言語があろうがなかろうが同じことだというのを忘れてはならない。 よって、人工言語を思想団体と結びつけて負のイメージを持つのは誤りだ。