人工言語は実用化に従い、自然言語化していく。
これは経験則であるが、正しい。
これは経験則であるが、正しい。
ところで、アプリオリとアポステリオリでは自然言語化の意味が異なる。
アポステリオリの場合、自然言語化しすぎると、参照元の言語と似すぎてしまう。
そうなると、何のために人工言語にしたのか分からなくなる。
あまりに似るなら、参照言語そのものでいいではないかという議論になる。
アポステリオリの場合、自然言語化しすぎると、参照元の言語と似すぎてしまう。
そうなると、何のために人工言語にしたのか分からなくなる。
あまりに似るなら、参照言語そのものでいいではないかという議論になる。
アプリオリの場合、参照言語がないので、自然言語に似るほど作りこみが見えてくる。
また、ゼロから語彙も文法も作るので、自然言語化させるのは実はむしろ難しい。
制アルカにはn対があった。そのため、作者が作る量は少なかった。つまり、楽ができた。
だが新生にはそれがない。作るのが大変だ。
また、ゼロから語彙も文法も作るので、自然言語化させるのは実はむしろ難しい。
制アルカにはn対があった。そのため、作者が作る量は少なかった。つまり、楽ができた。
だが新生にはそれがない。作るのが大変だ。
自然言語化するということは、人工言語にありがちな「体系的な命名法」を失うということに等しい。
従って、作者の作業量は増え、大変になる。
従って、作者の作業量は増え、大変になる。
ここがアポステリオリと決定的に異なる。アポステリオリは、自然言語に似せるほどパクり率が増えるので、楽になる。
アプリオリの場合、自然言語化するほど作業量が増える。
人工言語の自然言語化については分析対象がアプリオリかアポステリオリかに注意する必要がある。
アプリオリの場合、自然言語化するほど作業量が増える。
人工言語の自然言語化については分析対象がアプリオリかアポステリオリかに注意する必要がある。