世界の言語には時制のない言語がある。
かと思いきや、時制のやけに多い言語もある。
例えば過去形を数日前の過去、数年前の過去などに細分化する言語である。

一方、アスペクトが細かい言語がある。
日本語はタで過去も完了も表すのでアスペクトに豊かとはいえないが、アルカはアスペクトが多い。
どうも言語はテンスに細かいものとアスペクトに細かいものがあるようだ。

スラブ語には完了体と不完了体の明確な区別があり、一部の動詞では体によってまったく別の単語を使う。
字上符省略
チェコ:vzit(完了体)――brat(不完了体)「取る」

完了と不完了の対立はロマンス語にもある。
フランス語の定過去は完了体に相当し、半過去は不完了体に相当する。
しかしフランス語のIl dormait bien dans la matinee(彼は午前中よく眠っていた)の半過去は英語の過去進行形に相当し、不完了体であるにもかかわらず、アスペクトではなくテンスのカテゴリーとして処理されている。

ゲルマン語やロマンス語ではテンスが発達したテンス言語であり、テンスがアスペクトの領域を覆う部分がある。
一方、スラブ語では逆の現象が起きる。

このことから、言語にはテンス言語とアスペクト言語があるといえる。
注意したいのは、スラブ語のようなアスペクト言語でも、フランス語のような状況が起こることがある点である。
例えばチェコ語では完了体非過去というアスペクトは未来形のテンスとして使われる。
アスペクト言語であっても、テンス言語の性質も持つという点に注意だ。

では、なぜテンス言語とアスペクト言語という性向が存在するのか。
それはテンスとアスペクトが不可分な関係だからである。
例えば完了相は話者にとって終わったことである。終わったことということはもはや過去のことだ。
だから完了と過去は近い位置に存在し、日本語の助動詞でも完了と過去の区別は上代から徐々に失われてきている。
従って、ある言語でアスペクトが発達すると、アスペクトがテンスの領域を食うということが容易に考えられる。

アルカは人工言語なので理屈立って作られた経緯がある。
従って時間についてはテンスが、行為の局面についてはアスペクトがそれぞれ専門に表現する。
しかし、テンス表現が通時を入れた4種しかないのに対し、アスペクトは9相もある。
どちらかといえばアスペクト言語に篩ってよいはずである。