「意味する」「〜である」「〜はいくらである」など、行為でも状態でもなく、「主語は目的語である」と定義するための動詞がある。
アルカでは順にeks, et, gartである。
ほかにmols(時間はいくらである)などもこの類である。
アルカでは順にeks, et, gartである。
ほかにmols(時間はいくらである)などもこの類である。
eksは行為動詞としては「意味するようになる」という意味を持つ。
状態動詞として「意味するようになっている」つまり「意味する」に等しい。
状態動詞として「意味するようになっている」つまり「意味する」に等しい。
従って「男でないは女を意味する」という文は本来的にはen vik ekses minとなる。
しかしeksを行為動詞の意味で使うことはまずないため、siinaなどと同じく例外動詞とする。
つまり、無標が状態動詞になる。
ゆえに、en vik eks minでよい。
しかしeksを行為動詞の意味で使うことはまずないため、siinaなどと同じく例外動詞とする。
つまり、無標が状態動詞になる。
ゆえに、en vik eks minでよい。
このことはほかの動詞にも言える。
だが、言えないのがひとつある。繋辞である。
だが、言えないのがひとつある。繋辞である。
繋辞は「〜になる」が行為動詞としての意味であり、「〜になっている」が状態動詞としての意味である。
しかし、「〜になる」はbeではなくbecomeに当たるものだ。アルカで言えばetでなくemに当たる。
そこで気付いたのだが、esというのはemの状態動詞なのだろう。
しかし、「〜になる」はbeではなくbecomeに当たるものだ。アルカで言えばetでなくemに当たる。
そこで気付いたのだが、esというのはemの状態動詞なのだろう。
今まではetが行為動詞で、その影響相がetesだが、繋辞の場合は特別にetを略してesにしていた。
つまりesの原形はetesだ。esはあくまでetの影響相だ。
だが、行為動詞の意味を考えると、esの原形はem(〜になる)のはずだ。
つまりesの原形はetesだ。esはあくまでetの影響相だ。
だが、行為動詞の意味を考えると、esの原形はem(〜になる)のはずだ。
では、etはどこに行くか。
これが純粋な定義動詞として残ればいい。状態ではなく性質を現す繋辞だ。
例えば「これは一時的に濡れている」という状態を表すなら、tu es eves。
「私は女だ」という性質を指す場合は、恒常的な定義なのでnon et min。
これが純粋な定義動詞として残ればいい。状態ではなく性質を現す繋辞だ。
例えば「これは一時的に濡れている」という状態を表すなら、tu es eves。
「私は女だ」という性質を指す場合は、恒常的な定義なのでnon et min。
性質と状態を言い分けられるのは、従って繋辞のみになる。
意味するなどの動詞では、状態動詞を以って定義動詞とするため、性質と状態の差がない。
意味するなどの動詞では、状態動詞を以って定義動詞とするため、性質と状態の差がない。
恐らくeksやmolsなどの動詞に性質か状態かの区別はいらない。
だが、繋辞には必要だ。川が枯渇していて恒常的に乾いているのと、日照りで一時的に乾いているのでは意味が違う。
一方、あるものの性質によって意味していることと、あるものが状態として意味しているということの区別は、あまり日常的に必要とは思えないからだ。
だが、繋辞には必要だ。川が枯渇していて恒常的に乾いているのと、日照りで一時的に乾いているのでは意味が違う。
一方、あるものの性質によって意味していることと、あるものが状態として意味しているということの区別は、あまり日常的に必要とは思えないからだ。