「書いた」「殺した」「寝た」など、動詞の完了相はどの時点を指すのだろう。
辞書に載っているわけでもないのに、ネイティブはおおむねどの時点が完了か互いに知っている。
「殺した」は相手が死んだ時点だ。
辞書に載っているわけでもないのに、ネイティブはおおむねどの時点が完了か互いに知っている。
「殺した」は相手が死んだ時点だ。
何を以って完了とするか。それは対象に状態変化が起こった時点である。
例えば殺すなら相手が死んだ瞬間だ。ここで相手が死という状態に変化する。
壊すなら、故障した瞬間が完了になる。
対象に変化が起こる動詞は完了相がどこか分かりやすい。
例えば殺すなら相手が死んだ瞬間だ。ここで相手が死という状態に変化する。
壊すなら、故障した瞬間が完了になる。
対象に変化が起こる動詞は完了相がどこか分かりやすい。
逆に、変化が起こらない動詞は、どこが完了か分かりにくい。
叩くや殴るは対象が変化しないので、一発殴って手が着いた時点なのか、フルボッコにしおわった時点なのか分からない。
だが、フルボッコは反復の終了であって一回の行為の終了ではないという風に皆思うだろうから、叩くの完了形は手が触れたときだと考えるのが多数だろう。
叩くや殴るは対象が変化しないので、一発殴って手が着いた時点なのか、フルボッコにしおわった時点なのか分からない。
だが、フルボッコは反復の終了であって一回の行為の終了ではないという風に皆思うだろうから、叩くの完了形は手が触れたときだと考えるのが多数だろう。
歩くや行くの場合は、その行為を止めるべきゴールが完了と見なせる。
駅まで歩くのなら、駅に着いた時点が完了となる。
駅に変化は何もない。ただゴールというだけである。
変化しているのは主語となる経験者である。「到着」という変化が訪れている。
駅まで歩くのなら、駅に着いた時点が完了となる。
駅に変化は何もない。ただゴールというだけである。
変化しているのは主語となる経験者である。「到着」という変化が訪れている。
主語に動作主や経験者が来ることは言語学の文献でもおなじみだろうが、このように経験者を見るのも面白い。
この考えがアリか気になって調べてみたが、石綿敏雄(1999)『現代言語理論と格』p.127では、「彼が体験した話」における主語の「彼」を経験者としている。
例えば話を体験しても目的語の話は何も変わらないが、主語の彼は話を経験するので、経験者といえるだろう。
この考えがアリか気になって調べてみたが、石綿敏雄(1999)『現代言語理論と格』p.127では、「彼が体験した話」における主語の「彼」を経験者としている。
例えば話を体験しても目的語の話は何も変わらないが、主語の彼は話を経験するので、経験者といえるだろう。
対象が変化しないと完了が見えにくいが、行為に動きすらないものだともっと分かりにくい。
「笑う」とか「眠る」とか「〜である」といった類だ。
「笑う」とか「眠る」とか「〜である」といった類だ。
状態動詞は状態なので行為ではないから動きがない。
状態動詞を持ってきて「うーん、どこが完了かな」と考えると、とても分かりにくい。
状態動詞を持ってきて「うーん、どこが完了かな」と考えると、とても分かりにくい。
アルカの場合、行為動詞がベースなので、「笑う」ではなく「笑わせる」、「怒る」でなく「怒らせる」という動詞で完了相を探す。
こうなると話は早い。「怒らせる」の完了相は相手が怒った状態に変化した時点だからだ。
このように、状態動詞の場合は行為動詞化して考えると、完了相が見えてくる。
こうなると話は早い。「怒らせる」の完了相は相手が怒った状態に変化した時点だからだ。
このように、状態動詞の場合は行為動詞化して考えると、完了相が見えてくる。
「眠る」も「ベッドイン」「入眠時」「目が覚めたとき」など、いくつか完了相になる候補があって分かりにくい。
だが、アルカだとmokは「眠る」ではなく「眠らせる」という行為動詞である。
従ってその完了は対象眠った状態にする時点であり、すなわち入眠である。
だが、アルカだとmokは「眠る」ではなく「眠らせる」という行為動詞である。
従ってその完了は対象眠った状態にする時点であり、すなわち入眠である。
ようするに、状態動詞っぽくて完了がよく分からない場合は、行為動詞化して考えればいい。
「好き」とか「眠る」とか、状態動詞っぽく振舞う動詞は「好む」「眠らせる」のように、行為動詞化して考えると、完了相が見える。
行為動詞にすれば、「好かれた状態にする」とか「眠った状態にする」というように、「○○な状態にする」という時点が完了相になる。
「好き」とか「眠る」とか、状態動詞っぽく振舞う動詞は「好む」「眠らせる」のように、行為動詞化して考えると、完了相が見える。
行為動詞にすれば、「好かれた状態にする」とか「眠った状態にする」というように、「○○な状態にする」という時点が完了相になる。
言い換えれば、行為動詞の完了相というのは対象を「○○な状態にした時点」と一般化できる。
自然言語の場合、すべての動詞が行為動詞を基本とするという決まりがないので、殺すの完了は分かっても眠るの完了はよく分からないといった悩みが起こる。
だが、すべてを行為動詞化して考え、「○○な状態を与える」を行為動詞の完了相にすれば、一律の見方で完了相を見つけられる。
自然言語の場合、すべての動詞が行為動詞を基本とするという決まりがないので、殺すの完了は分かっても眠るの完了はよく分からないといった悩みが起こる。
だが、すべてを行為動詞化して考え、「○○な状態を与える」を行為動詞の完了相にすれば、一律の見方で完了相を見つけられる。
先ほどの歩くの場合、対象ではなく主語となる経験者に「着いた」という変化が訪れる。
「彼は駅まで歩いた」における主語は動作主でなく経験者なのだが、その根拠は、「○○な状態を与える」の受け取り手が駅ではなく彼だからだろう。
ただ、いずれにせよ行為動詞の完了相はこのように、対象ないし経験者に「○○な状態を与える」と一般化してよいだろう。
「彼は駅まで歩いた」における主語は動作主でなく経験者なのだが、その根拠は、「○○な状態を与える」の受け取り手が駅ではなく彼だからだろう。
ただ、いずれにせよ行為動詞の完了相はこのように、対象ないし経験者に「○○な状態を与える」と一般化してよいだろう。
また、ここでは行為動詞「怒らせる」の完了相しか分かってないが、状態動詞の完了相も分かる。
状態動詞「怒っている状態にする」の完了相は「怒っていない状態にする」である。
状態動詞の完了相は、その動詞の意味する状態からの脱却と一般化できる。
これは覚えておくとよい。
状態動詞「怒っている状態にする」の完了相は「怒っていない状態にする」である。
状態動詞の完了相は、その動詞の意味する状態からの脱却と一般化できる。
これは覚えておくとよい。
これを応用すると、状態動詞「座っている」の完了相は「座ってない状態にする」すなわち「立ち上がる瞬間」に等しい。
まとめ
行為動詞の完了相の見つけ方=「対象に○○な状態を与える」時点。「眠る」の場合は「眠らせる」、「座る」の場合は「座らせる」など、行為動詞でない場合は動詞をいちど行為動詞化してから考えると完了相が見つかりやすい。
状態動詞の完了相の見つけ方=その動詞の意味する状態からの脱却。「座っている」なら、座っていなくなった時点。
行為動詞の完了相の見つけ方=「対象に○○な状態を与える」時点。「眠る」の場合は「眠らせる」、「座る」の場合は「座らせる」など、行為動詞でない場合は動詞をいちど行為動詞化してから考えると完了相が見つかりやすい。
状態動詞の完了相の見つけ方=その動詞の意味する状態からの脱却。「座っている」なら、座っていなくなった時点。
長所:すべての動詞を一律の法則で分析できるため、動詞ごとに完了相の語義を覚える必要がない。
短所:動詞によって行為動詞を無標とすべきものと、状態動詞を無標とすべきものがある。だが一律の規則だとどちらかを無標にするしかない。有標になった方には何らかのマークが付く。そのマークの分だけ冗長になる。
短所:動詞によって行為動詞を無標とすべきものと、状態動詞を無標とすべきものがある。だが一律の規則だとどちらかを無標にするしかない。有標になった方には何らかのマークが付く。そのマークの分だけ冗長になる。
対処:
アルカの場合、無標と半有標と有標の3段階に分けた。
行為動詞の無相が無標。
行為動詞の経過・完了・影響が半有標。半有標は有標ほど長いマークが付かず、無標に2文字付加しただけなので、負荷が小さい。例えば経過相はaxtに対してaxtarになる。
それ以外の7相はすべて有標で、冗長。頻度が少ない相なので、問題なし。
アルカの場合、無標と半有標と有標の3段階に分けた。
行為動詞の無相が無標。
行為動詞の経過・完了・影響が半有標。半有標は有標ほど長いマークが付かず、無標に2文字付加しただけなので、負荷が小さい。例えば経過相はaxtに対してaxtarになる。
それ以外の7相はすべて有標で、冗長。頻度が少ない相なので、問題なし。
さて、当該の完了形であるが、行為動詞の場合は半有標で、状態動詞の場合は有標である。
これは頻度に即している。どのような動詞であろうと行為動詞の完了相のほうが状態動詞の完了相より頻度が高い。
従って、上記の短所に該当するケースが、少なくとも完了相にはない。
これは頻度に即している。どのような動詞であろうと行為動詞の完了相のほうが状態動詞の完了相より頻度が高い。
従って、上記の短所に該当するケースが、少なくとも完了相にはない。