http://hiii.sblo.jp/article/15380729.html
にて、アスペクト考が上がりました。
にて、アスペクト考が上がりました。
彼我のアスペクトモデルを図示すると、こんな感じになります↓(汚いですが)
上が魚楠案で、下がセレン案です。
赤と青をつけているところは対応部分です。例えば赤は赤に相当します。後で説明に使うので塗りました。
完了体二の開始と継続はアルカでは、状態動詞の経過相の一部に相当します。
完了体三は占有面積が不完了と同じなので、モデルの簡略化のため、捨象しました。
(最小限の文字しか書いてないので、もはや当事者しか分からないかも……)
赤と青をつけているところは対応部分です。例えば赤は赤に相当します。後で説明に使うので塗りました。
完了体二の開始と継続はアルカでは、状態動詞の経過相の一部に相当します。
完了体三は占有面積が不完了と同じなので、モデルの簡略化のため、捨象しました。
(最小限の文字しか書いてないので、もはや当事者しか分からないかも……)
観点1:構造
魚楠案は天秤型のモデルで、セレン案は「ユ」型のモデルです。
構造の見易さは氏のほうが上です。
左右対称で見やすく、左右それぞれの天秤の皿を認知しやすい。
構造の見易さは氏のほうが上です。
左右対称で見やすく、左右それぞれの天秤の皿を認知しやすい。
憩いにて氏からこんなレスがありました。
行為動詞中心だと「『燃やした』は点火したのか燃え尽きて灰になったのかどちらですか」と問われて困るかも知れません。
仮にどちらか一方だと答えても「ではもう一方はどのように表現しますか」で困るかも知れません。
状態動詞から出発すれば「点火した瞬間」「火が消えた瞬間」「火が点いてから消えるまで」の三つを行為動詞として用意しよう、と計画が立てやすくなります。
そしてその場合は上記のような質問自体があまり重要でなくなります。
行為動詞から始めるにしても「不完、完一、完二、完三」の関係を頭に置いて考えれば良いだけのことなんですけどね。
それに必ず状態動詞を最初に作らなければならないというわけではなく、出発点を状態動詞とするだけです。
この文章で述べていることは確かにモデルの中に観察することができます。
「点火した瞬間」は左の皿、「火が消えた瞬間」は右の皿に入ります。
で、この皿はアルカだと黄色い部分と青い部分に相当します。魚楠案に比べて非対称で見づらく、どこにあるのか分かりづらいですよね。
「点火した瞬間」は左の皿、「火が消えた瞬間」は右の皿に入ります。
で、この皿はアルカだと黄色い部分と青い部分に相当します。魚楠案に比べて非対称で見づらく、どこにあるのか分かりづらいですよね。
氏はこの2点(正確には完了体三も入れて3点)がスッキリ作れることを「計画が立てやすくなります」と表現しています。
これは絵でいうと恐らく左右の皿に見やすく乗っけることができることを意味している――というのが今のところ私の読解です。
アルカの場合、確かに見づらい。計画は立てづらいかも。
これは絵でいうと恐らく左右の皿に見やすく乗っけることができることを意味している――というのが今のところ私の読解です。
アルカの場合、確かに見づらい。計画は立てづらいかも。
これを踏まえた上で、氏の主張していた利点は理解することができました。
「計画を立てやすい」は、モデルの構造を考慮すると、首肯することができます。
納得しました。
「計画を立てやすい」は、モデルの構造を考慮すると、首肯することができます。
納得しました。
観点2:機能
相としての機能は、両者の案ともに必要な相をカバーしている。
機能としては、ともに問題ない。
機能としては、ともに問題ない。
観点3:言語学
氏の不完了は状態動詞、完了は行為動詞に相当します。
このモデルだと中心には不完了の継続相が来ます。
セレン案だと、中心には行為動詞の完了相が来ます。
このモデルだと中心には不完了の継続相が来ます。
セレン案だと、中心には行為動詞の完了相が来ます。
つまり氏は状態動詞がモデルの中心で、セレンは行為動詞がモデルの中心になります。
さて、行為と状態のどちらがモデルの中心、つまり無標になるべきか。
さて、行為と状態のどちらがモデルの中心、つまり無標になるべきか。
日本語の場合、状態は「テイル」を付ける有標形が多いです。
英語でもlikeなどの動詞を除き、原則無標は行為動詞。状態動詞にするには分詞を使用する。
英語でもlikeなどの動詞を除き、原則無標は行為動詞。状態動詞にするには分詞を使用する。
スラブ語は氏が詳しいことを知っているので例を出すのはおこがましいが、セム語にも完了と未完了の違いがあるので、ちょっと例に出してみる。
アラビア語の場合、「私は書いた」はkatab-tuで完了。「私は書いている」はa-ktub-uで未完了。
アラビア語では完了と未完了がどちらも有標。アルカでいうとaxtikとaxtarのどちらも有標であるのと同じ。
ではアラビア語では何が無標かというと、完了でも未完了でもなく、行為動詞「書く」katabaである。アルカでaxtに相当。
アラビア語の場合、「私は書いた」はkatab-tuで完了。「私は書いている」はa-ktub-uで未完了。
アラビア語では完了と未完了がどちらも有標。アルカでいうとaxtikとaxtarのどちらも有標であるのと同じ。
ではアラビア語では何が無標かというと、完了でも未完了でもなく、行為動詞「書く」katabaである。アルカでaxtに相当。
日英亜と来て、どうも行為動詞と状態動詞を比べると、行為が無標になるケースのほうが多い様子。
状態が無標になるのは英語の知覚動詞seeやlikeなど、数としては少数。
状態が無標になるのは英語の知覚動詞seeやlikeなど、数としては少数。
セレンの主張では、行為動詞が無標になる頻度が高いなら、行為動詞の無相を無標にするのが自然ではというもの。
その主張でいくと、上記のセレンのモデルになる。あのモデルだと行為動詞を起点に考えるので、行為動詞の無相が無標になるのが自然。
その主張でいくと、上記のセレンのモデルになる。あのモデルだと行為動詞を起点に考えるので、行為動詞の無相が無標になるのが自然。
魚楠モデルでは行為動詞の無相が完了体一の無相に相当し、ブログによるとその語形は一般にverbapである。
状態動詞の経過相が不完了の継続相に相当し、その語形は一般にverbである。
「書く」で言うと、「書く」がverbapで、「書いている」がverbになる。
「好き」で言うと、「好む」がverbapで、「好きだ」がverbになる。
状態動詞の経過相が不完了の継続相に相当し、その語形は一般にverbである。
「書く」で言うと、「書く」がverbapで、「書いている」がverbになる。
「好き」で言うと、「好む」がverbapで、「好きだ」がverbになる。
なるほど、「好き」のような状態動詞を無標にすべき動詞だと効率がよい。
が、「書く」のような動詞では、verbapのほうを無標にすべきではなかろうか。
が、「書く」のような動詞では、verbapのほうを無標にすべきではなかろうか。
このモデルはよくできていると思う。まず形からして綺麗だし、理解しやすい。
難点は、行為動詞の無相を無標にしなくていいのかという疑問である。
仮に行為動詞の無相を無標にしたとしたら使い勝手は向上する。ただこのモデルだと無標部分が左の皿になってしまい、モデルの中心と無標が不一致になり、モデルの外見と実質が食い違ってしまう。
難点は、行為動詞の無相を無標にしなくていいのかという疑問である。
仮に行為動詞の無相を無標にしたとしたら使い勝手は向上する。ただこのモデルだと無標部分が左の皿になってしまい、モデルの中心と無標が不一致になり、モデルの外見と実質が食い違ってしまう。
思うに、このモデルを使った場合、動詞ごとに「不完了の継続相を無標にする動詞」と「完了体一の無相を無標にする動詞」に分ける必要がある。でないと、後者を有標形で使う羽目になり、冗長になる。
反面、動詞を分けるということは、学習者に動詞がどちらに属するか覚えさせる欠点を産む。これはアルカのモデルでいう「例外動詞の記憶」と等価である。
反面、動詞を分けるということは、学習者に動詞がどちらに属するか覚えさせる欠点を産む。これはアルカのモデルでいう「例外動詞の記憶」と等価である。
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