vat(待つ)は累積動詞か否か。
結論から言うと、否。

「なぜだ、一歩歩いても歩くだからlukは累積なんだろ。
じゃあ一秒待っても待ったことには変わらないからvatも累積だ」

――と思うかもしれない。
ここで単位について考えてみる。実は上の括弧内はおかしい。正確には

「なぜだ、一回歩いても歩くだからlukは累積なんだろ。
じゃあ一回待っても待ったことには変わらないからvatも累積だ」

――というべきだ。
累積とは単位の繰り返しなのだから。秒とか歩ではなく、回で考えなければならない。
さて、それでは最小単位の歩くとは何だろう。それは一歩歩くだ。
従って歩くという不定動詞の単位は「歩」になる。

書くも同じだ。最小単位は手首のワンストロークだ。
あるいは一文字でも一点でも一画でも結構。
書くの最小単位は「最小ストローク」になる。

読むは?
一文字が最小単位だろう。別に編や旁でもいいけれど。
読むの最小単位はおおむね「文字」である。

一方、待つの単位は何だろう?
心理動作にすぎない待つには実は極小の単位がない。
一秒と思うかもしれないが、そうではない。

一秒の間何もしなくても最小単位の待つをしたことになるだろうか?
一秒脚を上げたままで最小単位の歩くを行ったことにならないのと同じである。
秒というのはその間に何もしないことができるので、単位にはなれない。

そうすると待つには極小単位がないことになる。
殺すと同じく、別の大きな着点を持った単位を考えなければならない。
それは対象が来た時点である。
人間にとって「一回待つ」とは、相手が来るかこちらが諦めるかした場合だけである。

従ってvatに累積を求める行為は、ものすごく短い時間の中で何度も何度も「待つ」という行為を送ることを意味する。
もしそのような言語観を人間が持っているとしたら、彼は待ち合わせの相手にこのように言うだろう。
「遅いよ。もう2500回も待ったんだから!」
だが、実際に誰もこのような言い方をしない。
みな、待つの一回の単位は一度の待ち合わせという比較的長い時間を指すことを知っているからだ。

このように、心的動作は極小単位を設定できない。
極小単位を持たない動詞は歩くのような累積動詞にはなれない。setのような反復動詞にしかならない。
従ってvat onkは「何度も何度も待ち続ける」という気の長い話になる。
vatの仲間にはlax(望む)などがある。

では、「待っている」はvatarかvatesか、どちらだろう。
vatarである。vatesにするとvatikは「待つ準備を終えた瞬間」を意味する。
すると内相であるvatarは「待つ準備をする」になる。
表にするとこうなる。

vatar:待つ準備をする
vatik:待つ準備が終わり、待ち始める
vates:待っている

日常生活で上記のar,ikを使うだろうか?
一方、「待っている」をvatarに設定した場合はどうか。

vatar:待っている
vatik:待ち終わった。相手が来たか諦めたか
vates:待っていた形跡がある

明らかにこの組み合わせのほうが内相に無駄がない。
7相体系は内相が最も頻度が高くなるようにできている。
従って「待っている」はvatarであるべきだ。

同じく、laxについてはこのようになる。

laxar:望んでいる
laxik:望み終わる。叶ったか諦めたか
laxes:望んでいた痕跡がある

vatとlaxは心理的な動作であるという点で同じであり、そわそわ期待している点で意味も共通している。
今気付いたが、「期待」の中には奇しくも「待つ」という字が入っているね。
それで、vatとlaxの相は合わせたほうがいい。バランスを整えないと動詞ごとに相を覚えるのが面倒だ。