人はsetとsetesはきちんと区別するが、vatとvatesはきちんと区別しないのではないか。
(1) 彼は彼女を殺す
(2) 彼は彼女を殺している
(3) 彼は彼女を待つ
(4) 彼は彼女を待っている

(3)と(4)は同じことを言っているように聞こえるが、(1)と(2)は同じに聞こえない。
(3)も(4)もまだ彼が来ていない感じがするし、そこまで意味の差があるようには感じられない。
一方、(1)と(2)は違う。(2)はまだ止める余地がありそうだが、(1)はなんだかもう手遅れな気がする。
そしてそのように感じるのは正常な言語観だ。だが、なぜその差が出るのかは謎なはずだ。

実は無相には指向性がある。
動詞によって、その無相が暗示している相というのがある。

例を追加しよう。
(5) 星が消える

どうだろう。(3)のときは彼が来ているかどうか不明だったし、むしろまだ待っていると解釈しただろう。
(1)だと彼女が死んでいるかどうかは半々くらいだと解釈しただろう。
そして(5)だとほとんどの読者は星がもう消えたも同然だと解釈しただろう。

そう。sedoのような瞬間動詞では、無相は完了相への指向性を持つのだ。
言い換えれば、無相が暗黙の了解で完了相っぽく振舞うということだ。
この原因は「瞬間」だ。「瞬間」がキーワードとなる。
瞬間動詞は経過相がほぼゼロである。従って7相は
――○――○――○――から
――○○――○――になる。
そして開始と完了がくっついて、
――○――○――になる。

結果、無相がつまるところ完了相と等しくなってしまうわけだ。
このせいで、瞬間動詞の無相は完了相へ指向性を持つ。

一方、setの場合はどうか。殺すというのは通常待つほど長い時間はかけない。
色んな殺し方はあるだろうが、たいていはナイフでサクっとか、まぁじわじわやることは少ない。
かといってふつうは原爆で一瞬に灰にするほど瞬間的にも殺さない。

そこで、経過相は「ほぼゼロ」ではないが「とても短い」になる。
あえて図にするなら
――○――○――○――から
――○・○――○――になる。

元の7相に比べて、無相が完了相に近付いている。
だがしかし、完了相と融合はしていない。
そこで皆さんは(1)に対して彼女が死んでいるかどうかよく分からないと感じたわけだ。
setのような動詞は完了相へ多少の指向性があるといってよい。

一方、vatはどうか。待つというのは一般的に経過相が長い。
そして人類は待つという行為のうち、一番経過相に焦点を当てる。
殺すという動詞の場合は刺し殺した瞬間に焦点が行きやすいが、逆に待つという動詞は待っている間に焦点が行く。

こういうのは動詞のイラストを書かせてみると分かる。殺すの場合、AさんがナイフをBさんに刺し、Bさんがギャっとなっている絵を描くだろう。
待つの場合、Aさんが腕時計を見ながらイライラ貧乏ゆすりしている絵を描くだろう。相手が到着した瞬間の絵は描くまい。

さて、待つは経過相が長いが、それをあえて図にするなら
――○――○――○――から
――○――――○――○――になる。

こうなると、無相部分である○――――○で最も焦点化されているのが経過相であるということがビジュアル的に理解できると思う。
結果、vatの無相は経過相に対して指向性を持つということになる。

まとめ

動詞の無相は指向性を持つ。
指向性は経過相か完了相に向けられる。
どちらかになるかは、経過相の長さによって決まる。
例えば瞬間動詞は経過相がほぼゼロなので、完了相への指向性を持つ。

なお、ここで述べたのは行為無相に言えることである。
状態無相の場合、問答無用で継続相に指向性を持つ。
つまりskin xaはskinesに指向性を持つ。