池上嘉彦『英語の感覚・日本語の感覚』特集

・概要

p248によると、本書は放送大学ラジオ番組で1999年から4年間にわたって担当した放送の折りに制作したものとある。
大学生向けなので、概説書レベルで、読みやすい。

意味・認知・言語文化などを勉強したい人に、池上先生の本は向いている。
人工言語を作ったときも、最もお世話になった先生だ。
本書は言語学の一通りの概説だが、池上先生の特徴がよくでている。

〜だそうだなどと伝聞体で書いてあれば本書からの情報。それ以外は私の考え。

・p20

「語の<用法>は何によって決められているのであろうか。私たちは、馴染みのない語でどういうふうに使ってよいか――つまり、その<用法>がわからない折には、よく辞書でその語の<意味>を調べてみるということをする。つまり、私たちは語の<意味>がわかればその語の<用法>もわかると考えているわけである」

いや、そうではない。
われわれは本当に語の用法を調べるために辞書など引くだろうか。
辞書など、漢字を知りたいときに最も引くものだ。

語の用法は用例の記憶と類推によって身につくものである。
「「雨が降る」というのだから、雪についても「降る」でいいのだろう」というような類推で「降る」の用法を知る。
辞書は使わない。人間は用例の記憶と類推で用法を身に付ける。

類推というのは人間の認知と言語にとって重要なファクターなので、ぜひこの段階で言及しておきたい。外すべきではない。

・pp24-27 死の婉曲用法

どうやら、死のようにあまり考えたくないことは直接言及するのを避けるのが人類というものだそうだ。

アルカでは死ぬはvortだが、leev atolas(この星を去る)という表現もする。
日本語では「亡くなる」という。
どうも死を消滅に譬えた表現なら他にもバリエーションがありえそうだ。

また、眠るで死を譬えるのもありだ。様子が似ているからだろう。
これはメトニミーではなくメタファーであろう。

英語はgo westや日本語の没するのように、方角が死を表わすこともあるようだ。
これはメル19年現在のアルカにはない。面白い特徴で、少し雅に感じる。
アルカでは人は死ねば死神の道avelantisを通っていくが、宇宙にあるため、アルバザードから見た方角が定まっていないためであろう。

・pp27-28 皮肉

皮肉とironyのように、訳語がイコールで結ばれているものも、語義が異なることがあるそうだ。
ironyはジョーク目的で使われるので、あまり悪い意味ではないそうだ。
むしろ日本語の皮肉はsarcasmに近いらしい。

幻日で皮肉を調べるとふたつ単語が出てくる。
siklはsarcasmで、vernaxはironyに相当する。
日本語から考えると皮肉がふたつもあってなんだかよくわからない感じだが、外国語の視点を入れると理解できる。

・p33-34 戯語

ネットの普及で情報が速やかに届くようになった結果、ふつうの航空便をsnail mailと呼ぶようになったという。
だがこれは最初は面白いものの、もう古くなってしまったそうだ。

別の個所では、トイレや死は婉曲表現で表されるが、そのうち婉曲表現すら直接的に感じられるようになり、別の婉曲表現に走るとあった。

つまり婉曲表現や戯語表現があるかぎり、あらゆる言語は変化を免れないということになる。
人工言語もそれは同様。完成なき芸術だ。

アルカでもトイレはbeekだが、女の子はxerka(化粧室)という。
だがいずれウチの娘もxerkaが恥ずかしくなってくるかもしれない。

・p39 PC表現

人間は不平等な生き物なのに、その現実を隠そうとすると、PC表現が生まれてくる。
近代〜現代に発展するのがPC表現だ。

PC表現は行き過ぎるとただ煩雑なだけとなる。
筆者によると、dirtyをhygienically challengedとするのは「ふまじめ」に聞こえるらしい。同意である。

PC表現を見ていると、「現実に目隠しした男女平等運動でも起こっているんだろうな、この世界では」などと想像できる。
言語は世相を映す鏡だ。

・p42 シリツ

シリツの高校と聞くと、私立なのか市立なのか分からないという。
それはそうだな。それで塾では市立をイチリツというのだけれど。

アルカには同音異義語が少ないので、たまに出てくると誤解を招きうるのではと思ってしまう。
だが、そんな心配が無用であるのは、日本人である自分が一番良く分かっているはずだ。

・p52 基本レベルと黴

百科事典的分類の考え方でいくと、上位概念になるほどより基本的な概念となる。
アリストテレスの範疇の考え方からして既にそうだったし、ジョン=ウィルキンズ卿の人工言語の時代でも同じ考え方であった。

ウィルキンズの言語を見ていると万物を百科事典的分類に分けている。一見そのほうが分かりやすく見える。
だが、恐らく人間はそのように万物を分類していない。
人間の言語は、基本レベルを中心としている。上位概念がより基本とは考えていない。

古アルカでは一時期、月の細かい名称はあったのに、月そのものを指す単語がなかったことがある。
厳密にはなかったというより、あっても皆がその意味できちんと取るか不安定だった。

p52を見ていたら、motherとfatherの上位概念はparentだが、auntとuncleの上位概念はないという。
基本レベルにあるのは叔父叔母であって、人間は「親族名詞→血族→ン親等→云々」という百科事典的分類で万物を分類しているのではない。

私は人間の概念図というのは、黴に近いのではないかなと勝手に考えている。
高校の頃一人暮らしをしていて、ズボラなものだから、コップをかびさせたことがある。
黴というのは、大きな●がいくつか点在していて、●のそばに同心円状に輪っかができる。そして砂のような点が●と●の間にかろうじて道を作る。

どうも人間の概念図もこうなっているのではないか。
基本レベルが●で、その周りの輪っかがその関連語や上下の概念。連想ゲームでいうと刺激語を●とするなら、わっかは反応語に当たる。
そしてあまり使わない単語が砂の部分で、まったく黴に侵食されていない部分が叔父叔母の上位概念のような、欠損部。
多分、人間の概念図はウィルキンズのような百科分類、つまりピラミッド構造にはなっていないのではないか。

・pp71-72 thatの有無

I believe John honestとI believe that John is honestはニュアンスが違うらしい。
前者は直接的な体験に基づいており、後者は間接的な証拠によるそうだ。

アルカでは動詞や純詞でニュアンスの差を出す。

an xar la til diasexは主観的かつ祈願的。
an ser la til diasexは客観的で、かつ自分もそれを直接体験している。
la til diasex terは主に伝聞による推定。
la til diasex naは主観的な直接的体験ないし伝聞による間接的な体験。
il ser la til diasex terは客観的で間接的な体験。

・p82 女王との密愛

(a) John kissed the Queen by the hand.
(b) John kissed the Queen's hand.

(a)は女王との密愛があるのではと感じさせるそうである。
一般には(b)だそうだ。

アルカの場合、どうか。
(c) la xiksat neeme on las.
(d) la xiksat las e neeme.

どちらも言える。だが英語と違うニュアンスを持つ。このあたりがアプリオリなアルカの性能である。
(c)は「とにかくキスの相手が姫であるぞ」ということを伝えたい。
(d)は、「キスの相手はもう分かっていて、で、そのどこにキスしたのよ?」という場合に使う。

・p84 壁塗り構文はそんなに難しいか?

(a) John spread butter on a piece of bread.
(b) John spread a piece of bread with butter.

(b)はバターがパンにまんべんなく塗られ、(a)はパンの一部だけ塗られてるという解釈もあるそうだ。
学校では同義として教えるが、ニュアンスが異なる。なぜだろう?
――というのがいわゆる壁塗り構文だが、これってそんなに悩む問題だろうか。

だって、(a)は目的語がバターだ。バターを一切れ取って、それがなくなるまで塗れば、その行為は完了だ。
塗る相手は何だっていい。壁だろうがパンだろうが。
バターがなくなった時点でジエンドなのだから、パンにまんべんなく塗られるとは限らない。

一方、(b)はパンを塗るわけだから、パンが塗り終わるまではジエンドにならない。
――というだけの違いだろう。
ようするに、動詞の完遂性が与格でなく対格にかかるというだけの問題ではないか。

影山先生もそうだが、僕には壁塗り構文の問題は構文の問題でないように思える。
動詞、意味論、完了相(アスペクト)。この3つの問題だ。

・p127 向上と墜落と言語の変化

niceがバカという意味だったのにいつの間にか徐々に良い意味になっていったというのが向上だ。逆が墜落。
向上と墜落は言語の変化を見る際のひとつの物差しになる。

人工言語は意味の変化を嫌う。なぜか。作ったものが変わったら作り直さないといけないからだ。面倒くさい。
自分が意図的に変えるのはいいとして、人々が勝手に変えるのは許せない。
従って、思うに人工言語作者はおそらく言語の変化や方言にあまり関心がないのでは?少なくとも僕は興味がない。

・p134 子どもと大人の連想の違い

――に関して、このようにある。
「よく知られた1つの差は、子どもの場合は意味の近接性に基づく連想がかなり多いが、大人になるにつれて次第に意味の類似性に基づくものの比率が増加するということがある」だそうだ。

例えば、「母」といえば「優しい」が浮かぶのが子供で、「父」が浮かぶのが大人だそうだ。
大人になるにつれ、ある語Xの連想がコロケーションよりも語義に向かうのだそうだ。

面白い。では僕は大人か。今実験してみる。
「りんご?」――「みかん!」
「雪?」――「じるし!」
「鏡?」――「もち!」

……あれ?
1:2で僕は子どもか。

・p138 共感覚の普遍性

共感覚とは知覚を使った転用のことだ。
綺麗な声は視覚を聴覚に転用している。

p138によると、知覚は「視覚=聴覚>嗅覚>味覚>熱感覚>触覚」の序列があり、共感覚は右から左に向かっては起こるが、その逆はレアということである。
つまり触覚を聴覚に使って柔らかい声とすることはあるが、その逆はレアという。
これは人類共通の感覚なので、人工言語の比喩論にぜひ応用しよう。

筆者によると、この序列は感覚器官がどれだけ原始的かによるという。
アメーバでさえ触覚はあるが、視覚はない。視覚が高度で、触覚は基本だ。
だから触覚を視覚に転用するのだそうだ。なるほど納得。

・だからこそ例外部分にオリジナリティが現れる。

共感覚の例外は「黄色い声」などだそうだ。また、英語にはloud colourという言い方があるそうだ。
レアながら、共感覚には例外がある。
ということは、共感覚の例外にこそ、その言語のオリジナリティが出るということではないだろうか。

つまりアルカだろうがなんだろうが共感覚はあるし、その序列は上の通りだ。
だが共感覚の例外部分にアルカのオリジナリティが出る。
そのオリジナリティが僕の場合ことごとく日本語と同じだった場合、アルカはとてもアプリオリとは言えないことになる。
共感覚の例外部分はオリジナリティが出る上、その言語のオリジナリティがアプリオリか否か測る物差しになるようだ。

注)厳密にいえば、この理論さえ知っていれば、母語と結果が同じでもアプリオリといってもいいだろう。この理屈を知っていれば共感覚の例外について自分の母語を丸パクリせず、アプリオリで作ることができるようになる。
 結果的に母語と似たところで、アポステリオリとはいえず、それはただ似ただけといえる。逆に、この理屈を知っていないと極めてアポステリオリになる可能性が高い。

・6章以降

――は、池上論の本領発揮だ。BE言語とHAVE言語など、池上論のエッセンスが易しい言葉で一覧できる。
人工言語屋にはここだけでも読んどけと言える箇所だ。

・p189 自己分裂と自己投入

英語は鏡の前で自分に話しかけるとき、よくyouという。日本語は私だ。
「(私)もっと頑張らなくちゃ」は"You must work much harder!"となる。

筆者曰く、自己の他者化が日本語では避けられ、英語では受け入れられるためという。

自己の他者化はgoとcomeの語法など、ほかの文法項目にも絡んでくるので、人工言語を作るときは重要なファクターだ。
自己の他者化をオンにするかオフにするかで、さまざまな事項が決定される。いい加減に個々の事項を設定しないように。

さて、アルカはどうか。
自己の他者化という項のオンオフが綺麗に決まれば簡単なのだろうが、よく練られた芸術言語ほど複雑なシステムをしていると自負しよう(笑

実はアルカは自己の他者化を行ったり行わなかったりする。
アルカには古くからカイトクレーマーという思想がある。
自分の中に自分のアンチがいて、悩んだときに彼が問いかけてくるというものである。

ようするに、弁証法の助けとなるアンチテーゼを務めるのがカイトクレーマーということだ。
ジンテーゼにアウフヘーベンすれば、カイトクレーマーは消える。

この思想はアシェットが持ち込んだものではなく、カコの時代の文献から持ち込んだもののようだ。
エスト作『ソノヒノキ』にカイトクレーマーに相当するものが出ており、弁証法をして去っている。

そして弁証法を脳内で行うとき、自己はテーゼとアンチテーゼに分裂する。
この際、アルカでも自分をtiと呼びかける。
従ってふだんの独り言や思考では自分はanとなる。自己投入である。

夢織の紗枝は2話で詩姫にしてやられたとき、はじめはnon(私)で思考していたのだが、徐々に自己を非難する口調に変わっていった。
そして最終的には自分をti(あなた:怒りだしたのでtyuでなくti)と呼んで非難しはじめる。この時点で自己分裂が行われている↓

aa...non et leit. sae, ti et leit! ala es ti en xaklat tu!
あぁ……私ってバカね。紗枝、貴方ってなんて愚かなの!貴方、どうしてそんなことにも気付かなかったの!

このように、アルカの自己分裂と自己投入は複雑で難しく、アルカ独特の表現法を形成している。

・p192 ゼロ化される主体

日本語は主体が表現されず、ゼロ化するそうだ。
「外へ出ると、月が明るく輝いていた」という文を見ると分かるとおり、誰が外に出たのか不明である。
主体がゼロ化している。

主体のゼロ化は、表現上、自然物を表現する際に長けていると思う。
風景や自然現象を描写するとき、主体をゼロ化しない言語だと、どうも観測者の目の存在が気になってしかたがない。
日本語は主体をゼロ化できるので、観測者を無視して風景や自然現象に目を向けることが簡単にできるという点で優れていると思う。
もちろん、優れているというのは、そのような表現をしようと考えた場合にやりやすいという意味でしかない。

アルカの場合、上の文はan insat xelt flip im an lunak soklとなる。
英語はWhen I went out, I saw the moon shining.だそうだ。

アルカは英語に似ている。主体をゼロ化できない。どうもanが邪魔だ。
無理に言おうと思えば言えるが、それは文法的に間違っていないだけの文であり、もはや自然な文ではなくなってしまう。
?? xelt flip at ins im sokl at luna

ちなみに、an insatの節が先に来ているところ、つまり結局何をしたのかというのを先に持ってくるところも、英語とアルカは共通している。
日本語は従属節優先の言語だが、英語とアルカは逆だからだ。こういうことも適当でなく、ひとつひとつ理屈に基づいて制作されている。

・pp234-235 話し手責任と聞き手責任

アメリカ人がタクシーに乗り、銀座東急ホテルに行くよう頼んだ。が、銀座第一ホテルに連れて行かれた。
アメリカ人は自分の説明が下手だったといい、日本人は勝手に誤解した自分が悪かったといったそうだ。

そこで筆者曰く、英語は話し手責任、日本語は聞き手責任の文化であるそうだ。
これには同意できる。欧米はスピーチやプレゼンや交渉が重要視され、日本は空気を読むのを重要視する。
欧米は「ちゃんと説明しろ!」で、日本は「分かれ!」の文化だ。

日本人は相手の話を聞くときに頻繁にうなづくが、聞き手責任を果たしていることのアピールをするからだと筆者は言う。
逆に欧米人が黙って相手の目を見るのは話し手責任の文化だからだそうだ。

ではアルカではどうか。アルカは相手の目は見ない。だが相手の顔は見る。
その上で、文の切れ目でうなづく。つまり両方の特性を持つ言語で、なかなか労力のいる文化だ。
ただ、日本人ほど頻繁ではない。

なお、アルカは伝統的に話し手責任である。きちんと言語で説明せいという考えがある。
だから誉めるときはaxma(論理的だね)、非難するときはarkas(正しい言葉づかいをせよ)と言うわけである。
ただ、だからといって聞き手も一生懸命努力するというのが礼儀で、聞き手責任も含まれる。
それで、相手をよく見て頷きつつ、黙って聞くということになるのだろう。

こうなったのは恐らくアシェットが28文化に属していたからだ。
28文化間だと、きちんと話すだけでは足りず、きちんと聞かないとコミュニケーションできない。
それが新生にも残っているということである。