・特別と凄いの時代

クロさんが引退されるそうです。
以前の俺と同じ心境だそうです。仕事にやりがいを感じているので、人工言語にかけるエネルギーが減ったようです。
確かに以前そんなことを考えたことがあったなぁ。

それでちょっと風呂で考えていたんだけど。
今日読んだ文章で、戦後は経済成長の時代だったが、現代は心の時代だという。
洗濯機がほしい、テレビがほしい、車がほしい、という明確な目標があった時代が終わり、物では幸福を測れなくなった。
そこで現代は心の時代。PCゲットしたからそれで幸せな家庭といえる時代ではなくなったわけだ。

さらに格差社会は広がるばかり。
心の時代なのに、格差は広がり、貧困層は増える。
政府は移民受け入れなんて馬鹿な案を言う始末。移民が増えて結局得をするのはブルジョワだ。
結果、格差はますます広がるだろう。心の時代なのにね。

7,80年代の人間は子供のころ豊かに過ごしてきたが、いざ社会に出ると氷河期に見舞われてしまった。
氷河期を乗り越えた人間も過労やボーナスカットなどにあえいでいる。
この世代の人間はほぼ誰もが子どものころのほうが幸せに暮らしていただろう。
――というのは森永卓郎の受け売りだが、その世代ジャストの俺としてはまさに首肯するところだ。

俺の世代の人間は自己中が多い。
子どもは少ないし、6ポケット世代の走りだし、漫画やアニメのシナリオは純文学と違って主人公が超越的な力や使命を持って活躍するものが基本だ。
どうも自分が特別だと思って成長するのに十分な環境があったのではないか。
さぁ、自分は特別だと思っている人間が大人になって氷河にぶつかり、先行き暗い格差社会に投げ出されたらどうなるだろうか。

現代は心の時代とあったが、俺はそこに「特別」と「凄い」という要素を足したい。
こんな時代だからこそ、心のよりどころというのが必要だ。
自己中な人間は宗教にハマりにくい。俺様教が基本だからね。
そんな人間にとって、よりどころになるのは何より「カッコイイ俺様」なのだ。神ではない。

では、その俺様たちはどんな自分なら納得できるのだろうか?
そこに出てくる要素が「特別」と「凄い」だと思うのだよ。
凄いというのは社会的地位とか金とか美貌とか、そういうことだとしよう。
特別というのはまぁここの読者に分かりやすく言えば人工言語とかだとしよう。

当然一番いいのは凄くて特別だ。キムタクとか絶好調時代のホリエモンとかダルビッシュとかね。
だがそんなもん人口の1%もいない層なので、別に自分がそうでなくとも気にならない。
人間、自分とはかけ離れてるやつにはいちいち劣等感を感じない。

凄くて特別というのは非現実としていちいち気にしないが、じゃあ凄いと特別のどちらを取るかという問題が出てくる。
だがねぇ、これを選ぶのが難しい。実は両方とも欠点があるんだよ。

例えば必死こいて遊ぶ間もなく勉強していい会社入って社会の歯車になって20代でサラリーマンなのに年収600万を越えたら、まぁ凄いほうだ。
サラリーマンで20代で1000万というのはもっと凄いが、ちょっと現実的ではないね。
いくら一流大学だからって1000万もらえるなんて今の時代じゃよっぽどレアか釣りだ。
というわけで、まぁ600万以上もらってれば凄いの方だとは思う。
その上早くに結婚して子供もできてお受験も成功すればまぁ凄いだろう。

金や地位があれば凄いんだが、金や地位を得るためには基本的に趣味や自我は押し殺して歯車化する必要がある。
あ、そこ。株で儲けてウハウハとかは考えないようにね。レアすぎるから、含めてたらキリがない。
基本的に「凄い」を手に入れるには没個性と趣味の諦めは必至。
好きに生きて大学は授業サボって、適当にバイトとデートして、行きたいときに旅行して〜、なんてことをやってたら「凄い」は得られない。

ただ、「凄い」を手に入れると、「俺の人生ってつまんねーよな……」という不安に襲われる。
たしかに足元は安定した。でも、絶対俺歴史の教科書に載らないし、別に俺が死んでもいくらでも代わりがいるよな、と思う。
なお、思わない人は幸せだから、もちろんそのまま何も考えなくていいと思う。

一方、特別っていうのは荊の道だ。
レールがない。保障もない。でも人生好き勝手やって自分の好きなことして生きてる。
そして、何より、「俺じゃなきゃ替えがない」快感を味わうことができる。

例えばアルカはまったく社会的に凄くない。金にもならない。
でも、セレンがいないと成り立たない(今はどうかな……(-_-;
その意味で特別ではある。
俺なんて人工言語とったら、この世に俺にしかできないことなんて無くなる。

だが、「特別」っていうのはたいてい利益と一致していないので、苦しい生活をする羽目になる。
これが欠点。

そう、安全パイを選べば「俺って替えのきく歯車だなぁ」と悩み、荊の道を選べば「働けど働けど……」になるわけだ。
どっちも欠点があるし、両方選べるキムタクみたいな人はレアなので、実際はどちらをどのバランスで選ぶかが問題だ。
前世紀は終身雇用など、レールの多い時代だった。だから別に「特別」とかに目を向ける必要がなかった。見ないで走っていても楽に生きられた時代だからね。
だが今は違う。この暗い時代だからこそ、せめて自分が自分に納得した生き方をしたい。
そのためには「凄い」を選べばいいか、「特別」を選べばいいか、いったいどちらをどの配分でなら自分は納得できるのだろうか。それを考える必要がある。

俺は自己中度が高い。
自己中っていってもオフで何人か会った人からすれば、そんな自分勝手な偏屈野郎には見えなかったかもしれない。自分勝手という意味とは少し違うからかな。
なんていうか、自分が小説の主人公だったらなぁという幼稚な考えといったほうが近いと思う。
「凄い」にはあまり関心がない。でも「特別」ではありたい。

だから、俺にとってアルカというのは止められないライフワークなのだ。
そして多分読者にとっても人工言語は自分を特別付けるためのものなのではないかと思うのだ。
(いや、一緒にしては失礼か……。向学心だけの人もいるかも。

以前、仕事が充実してるのでアルカどこではないと確かに述べた。クロさん、よく覚えてるwでも今はこんな考えをしている。
辞めないで続けた結果、ちょっと成長したと思う。今度の10月で言語論も3年だしさ、「商い3年」って諺あるでしょ。そろそろ落ち着いた見方ができてきたと思う。

クロさんも来年の1月で3年だ。
だから、そこまで粘れば、「凄い=仕事=平日の現実」と「特別=趣味=休日の現実」の間に巧いバランスが取れるようになると思うんだけどな。
とはいえ、今回のことは彼の決断だ。それは尊重しないと。それに、仕事が充実していることは掛け値なしにいいことだしね。