・人工言語をやっていて楽しいと思うとき

最初の頃、文法や文字を作っているときは、オリジナルの模型を作っているみたいで面白かった。
その後の辞書作業は写経のようでつまらなかった。

言語ができてしまった今は、アルカオリジナルの表現をしたときや、ファンタジックな設定を喋ったときに楽しいと思う。
僕は受注品という事情を除けばファンタジーが好きで人工言語を作ったようなものだから、ファンタジーのオリジナリティを感じるときに楽しいと思う。

あらゆる作品に没頭できないのは、自分が神経質だからだ。
僕の場合、なんでヴァナディールは日本語なんだろうとか考えてしまうので、楽しめない。
グルメがスカイラークを巧いと思えないのと同じ感覚で、つまりファンタジーに対して贅沢な目を持っているということだ。

自分の目を納得させるには、人工言語と人工文化と人工風土が不可欠。
絵と同じくリアリティを追及していったら、自然とそういう好みになった。
だから、アルカを使って楽しいと思うときは、「リアルなファンタジーだな」と感じられるとき。

銀英で「打て」の代わりに「ファイエル!」と言うのは、中学校のとき、何となくカッコいいと思ったものだ。あの延長線上にアルカがある。
その感動はちょっとしたことに対して感じるものだ。例えば「食らえ」とかね。アティーリだと、"re yu"としたほうがそれっぽい。
「食らえ」だと、「食べるの多義性なんだな。日本語では食べるをメタファー化するんだな」とか、そういうことが一々気になって、何を読んでも日本っぽく感じてしまう。

僕は1億人に1人くらいしかいなそうな神経質だが、そのせいで、アティーリなら"re yu"だなとか、そういう風に感じる。
もちろん幽白だったら「食らえ」が一番合う気がする。

頭の中で架空のキャラがよくできた架空の言語を喋っていかにも本物っぽい架空を繰り広げているのを想像するのが「楽しみ」だ。
文法などの骨組みを作ったころに比べ、楽しみ方が複雑化してきている。

簡単に言えばこんな感じだ。
なんか頭の中でリディアがヴァルデを振りかざして、アルカで魔法を唱えて空を飛んで悪魔と戦ってるのとかを想像すると、ドーパミンが出るわけだ。
ふつうは出ない。でも、僕は出る。

逆に、本物のほうのリディアと近況を話しているときにアルカを強制されるケースでは、出ない。心地よくない。
アルカは芸術にも日用にも使えるように作ったわけだが、実際自分が好んでいるのは前者なのだと思う。
コミュニケーションツールとしての言語機能をアルカにはあまり求めていない。だってリディアと話すなら日本語か英語でいいじゃないか。

つまりね、"soonoyun, tisoono? ti kut nos til efa, tal ti tur passo?"なんて会話は、あまり面白くないのだ。楽しいとは思わない。
逆に、"xeltes, aldert est ant ka xante!"なんて文は、書いててわくわくする。
夢織のtiati--sなんかもかなり自分では捻ったほうだ。
そういう文を書いているときに、人工言語をやってて楽しいと思う。

僕以外の人が、何が楽しくて人工言語をやっているのかが気になる。
きっと僕とは違う感性を持っているはずだ。
ただ、あれかな。まだ文法を作ったり云々という骨組段階の人がほとんどだから、今話を聞かせてもらおうというのは無茶な要求かもしれないな。