既存の言語や文化の影響をどれだけ排除できるかが、アプリオリの純度を左右する。
作者は必然的に地球のいずれかの言語文化に属しているので、現実的には母語や母文化をどれだけ排除できるかが問題だ。

ここで注意したいのは、排除という語の意味だ。
母文化と人工文化が同じ特徴を持ってはいけないという意味ではない。たまたま、あるいは設定の必然で、同じ特徴を持つことなどいくらでもある。
「自分の文化にある特徴を引っ張ってきたら何でもかんでもパクり」というのはまず間違っている。
例えば、数百年前まで日本とまったく文化的に関わりのなかったイギリスでも、日本と同じ部分というのはたくさんあった。人工文化もそれと同じだ。

さて、そうなるとパクりなのかアプリオリなのか、線引きが難しい。
本当は設定するのが面倒くさかったり思いつかなかったから日本語の設定をパクったのに、そう言われると恥ずかしいから、嘘をついてアプリオリと証言する可能性がある。
その場合はアプリオリでないと非難されるべきだが、いかんせん、そう決定付けるのが難しい。
逆に、自分は潔白なのに「お前それパクりだろ」と言われたときに、違うんですよと説明する手段も難しい。

どうすればよいか、線引きを考えてみた。
文化を設定するときに、なぜその設定があるのかを考えたのなら、アプリオリでよいだろう。
なにも考えなしに設定したら、それは人工文化を作ったのではなく、単に母文化を引っ張ってきたことになる。

という基準を設けると、問題が起こる。
結局本人の意識の問題であり、外部の人間が後からアプリオリなのか否か評価できないからだ。
では、どうすればよいか。
他人が客観的に評価できるよう、なぜその設定に至ったかを記しておけば十分ではないかと思われる。

例えを出そう。
アルカで手っとり早いことをfast yun cuuxという。直訳すると、「夕食のように簡潔」という意味だ。
これは一見すると日本語の「朝飯前」にそっくりだ。つまり、いかにもパクり臭がする。
セレンは知っての通り日本人なので、これはアプリオリではないのではないかと思われる。

そこで辞書やアルバシェルトで検証すると、この慣用句の根拠になっているのはアルバザードの生活習慣によるものだと分かる。
アルバザードでは夕食が最も軽く、手軽なものとされる。また、毎日食べるものなので、意識にも上りやすく、慣用句にもなりやすい。
このような理由でできた慣用句なので、アプリオリといえる。
(ちなみに、アプリオリでないと分かった場合は、排他している。これはもう5年以上続いている方針なので、見つけてくれればむしろ嬉しいくらいだ)
(あと、日常生活で簡潔という意味なら、シャワーのように手早くという慣用句があっても良い。実際アルカにはそういう日本語とは全然平行しない慣用句がある。
 ただ、そういうのは見た瞬間パクりでないと分かってしまうので、ここでは一見日本語をパクったように見える例を出した)

一見母文化に影響を受けて見えるものも、このように掘り下げていけばそうでないことが分かる。
問題は、セレンが突発的に今日死んでしまえば、記録しか物を言わないという点だ。
記録を残しておかなければ、他人は判断できない。つまり、アプリオリの純度が高いと主張できない。

さて、ここで少し話題を変える。
そもそもなぜ純度が問題になるのか。

アプリオリの場合、架空世界で使われることが多い。
当然、「お前それパクったろ」とか「お前その設定考えなしだろ」とか「設定の甘いファンタジーだな」というのは、避けたい非難だ。

小説の場合、アルカほど神経質にならなくてもいい。
ただ、世の中にはレアな人もいるもので、究極のリアリティを求める人もいる。いる、というか、具体的にはセレンだけの可能性もあるが。
まぁ、いずれにせよ、そういった人種にとっては、アプリオリの純度というのは、気になることなのだ。

以前2chのnameさんに言われたことがある。
科学の術語の命名は地球の学問に依存せざるをえないと。
それは正しい。セレンもずっとそれが悩みだった。

ではその場合どうするのかというと、不純な設定なら未定にしておくのが一番だ。
その術語がその言語で必要になったとき、一から設定すれば良い。
そうでないうちは、中途半端に作ってしまうと、それこそnameさんの言うとおりになる。

もちろん、これはアプリオリにいえること。
それも、アルカのような目的の言語にいえること。
当然、趣旨の違う人工言語については、この限りではない。
例えばエスペラントなどでは、むしろセレンのやり方のほうがアウトだ。なるべく汎用性の高い言語から参照すべきである。