「日本語は日本人が作ったんだから、日本語も人工言語だ。従ってすべての言語は人工言語である」
――という意見を何度か聞いたことがある。私もそういう発想をしたことがあった。
だがこれは、人工授精の話をしているときに、「人為的に子作りしてるんだから、セックスだって人工授精だ」というようなものだ。
もちろんセックスは人工授精ではないし、同様に日本語も人工言語ではない。

そもそも、すべてが人工言語になったら、人工言語とか自然言語といった用語の必要性がなくなる。
「全部○だ」とか「全部×」だという二値論は――物事がそれに収まってくれれば楽なのだが――たいてい有用でない。

アプリオリとアポステリオリにも同じことが言える。
「作者は必ず自分の生きた環境に影響を受けるのだから、何らかを参考にしなければならず、すべてのものはアポステリオリである」
――というようなものだ。やはりというか、私も同じことを考えたことがある。
これも上記2例と同じく不適だが、かといって何を以ってアプリオリと認定するかの境界線も決め難い。

そこで、ここでは自身の経験に基づいて、アプリオリの境界線を考えてみたい。
原則的には――

1:部品
2:部品の組み立て方

――がアプリオリなら、アプリオリと見てよいと思う。

例えばドイツ産の木を使ってドイツ式の組み立て方をすれば、それはドイツの家と見ていいだろうということだ。置く土地は日本でもいいだろう。
イギリスのロックハート城は今は栃木県にあるのだが、あれを日本の城と思う人間はいない。だから、恐らく土地はどうでもいい。

土地とは家の場合の喩えだ。一般化すれば「環境」ということになろう。
アプリオリに必要な要素はやはり上記1,2で、その部品が置かれる環境は問わないと見るのが適切だろう。
言語の場合、環境というのは以下のものが考えられる。

作者の母語、母文化、母風土、生まれた時代、海外経験、旅行経験、学歴、学校で習った知識、趣味etc……

生まれた時代によって、例えばパソコンがあったりなかったりする。
人工言語を作るときはパソコンはあったほうがいい。
だがそれはアプリオリ性とは関係がない。学歴なども同様。

言語における部品とは、音韻や品詞や単語などに当たる。
部品の組み立て方とは、音節構造や文法や合成語などに当たる。

音韻の場合、IPAやUPSIDや類型論を使用して、独自に体系を作ることができる。
文法関係は最もアプリオリで作りやすい。
単語は音象徴などを使って膨らませていけば、比較的容易に独自の体系を作ることができる。
少なくとも、すべての単語を恣意で作ると覚えきれない。
また、百科辞書的分類に従って造語すると、これもまた難しい結果になるということは、ウィルキンズ卿が歴史で証明してくれている。

言語を作る自分は当然何らかの言語の母語話者だ。そして外国語の影響も受ける。平たく言えば、私たちの場合、日本語と英語に影響を受ける。
だが、部品や部品の組み立て方のときは、影響を排他しなければならない。とはいえ、排他するのは無理だ。どうしても意識に昇る。
それをもってすぐにアプリオリは無理とは言えない。排他以外にも方法はあるのだ。それが上記のように、部品と組み立て方を独自で作るという方法だ。

私はこれは妥当なやり方だと思う。
腹が痛いとき、痛くないと思いこんで痛みを排他しようと思うと、余計に痛くなる経験は皆さんにもおありだろう。
そういうときは痛くないと思うより、別のことを考えた方がいいというのも、皆さんは経験的にご存じだろう。
腹が痛いときに大地震が起これば、確実に最初の数分は腹が痛いことを忘れる。

痛みを「排他」できないときでも、別のことに集中して痛みを消すことができる。
言語作りもよく似ている。母語の影響を排他することより、独自の作り方に専念したほうがいい。
結果的にそれがアプリオリになる。

例えばアルカにaの母音があるのは、日本語や英語にaがあるからではない。類型論的に見て、aを含まない言語がないからだ。
もちろん、aという音を選択するときに、「日本語にもあって理解しやすいしな」という下心は抑えきれない。そういう意味で母語の影響は防げない。
だが、aを選択したのは類型論によるものなので、仮に私がフィンランド人だとしても、同じ選択をしたはずだ。そういう意味で、アプリオリといえる。

というようなやり方で、アプリオリの言語は作れる。作者ごとの環境を保持したまま。
文化と風土についても同様だ。部品と部品の組み立て方を独自にすれば、作者の環境如何にかかわらず、アプリオリといえる。
もっとも、すべての例がaのようにはいかないところが難しいのだけれど。