人工言語の単語の命名で最も特徴的なことは、フィールドワークをしないことではないだろうか。
日本人がマグロという単語を名付けたとき、恐らく彼らはマグロに接していただろう。
滝を滝と名付けたとき、恐らく彼らは滝の前にいただろう。

一方、私たちがマグロを名付けるときは、自分の記憶や百科事典の記述を頼りにするのではないか。
いちいち滝を見に行って目の前で考えることはしないと思う。
本で見て家の中で命名するのと現物を目の前にするのでは発想が異なるので、そのことが命名に影響するかもしれない。

例えばアルカで雪はsaeというが、これは「粉のような水」というところから来ている。とても綺麗なイメージだ。
古アルカではsaeehoといい、意味は同じだ。saeehoは古い語で、恐らく当時のメンバーからいってセレンかリディアの造語になる。
当時セレンはそこまでアルカに入れ込んでいなかったので、恐らくリディアであろう。

はたしてフィンランドのような寒いところで育った人が、雪にそのような情緒的な名前をつけるだろうか。
しかし、彼女が暖かい家の中でスープを飲みながらこの単語を考えたのだとしたら、どうだろう。情緒的になる余裕ができるだろう。
自然言語のように現物と接しながら命名していたら、saeehoとは言わなかったのではないだろうか。

大学のころにこの違和感に気付いたというか気付いてしまったというか……ともあれ私はできるだけ家の外で命名しようと思い、また家の中ではできるだけ図版を用いることにした。
中期制アルカ(05年ごろ)はDk Pubの"5-Language Visual Dictionary"を元に幻日辞典を作った。

現物に接したほうがよりリアルになるという仮説は、恐らく文字にもいえる。
オリジナルの表意文字を作るときに思考だけすると、どうしても我々は漢字に侵されてしまう。
このとき図版があると、リアルに作りこめるのではないかと考えた。

そして今日(09/1/11)、本屋で偶然こんなものを見つけて、使えそうだと思って買ってきた。


私は埼玉の海無県なので、海を見たことが人生で数回しかない。
だから潮とか漣といわれてもよく分からないし、百科事典で説明を見ても、学問的な命名しかできない。
かといってわざわざ海まで行くのも大変だし、行ったところでどれくらいだと波で、どれくらいだと漣かなど、分からない。

そういうときにこれを見ると、漣というのがよく分かる。
実際、私はこれを見るまで漣というのは単に弱い波のことだと思っていた。


さて、アルカは現在まだ十分に風流でみやびとは言えない。自然の豊かさなどを細かく描写するための言葉が足りないからだ。
そこで、この本がとても役に立つのではないかと思った。むろん、アルカ以外の言語にも役立つと思う。
(もっとも、こういう方向性でない言語については、役に立たないと思う)

ただ、saeの例でも見たように、できれば本だけでなく現物を見ながら命名をしたほうが、リアルに作り込めるとは思う。
やはり寒いところで震えながら考えるのと、家の中でぬくぬく考えるのでは、物の見方が違うと思うのだ。
(もっとも、そもそも目に見えないような科学的な小さい物質については、自然言語でも研究室で命名されることが多そうなので、家の中でも一向に変わらないと思われる)
人工言語にもフィールドワークという考え方がありえるのではないかということを、ここでは述べたかった。