「ふくよか」と「デブ」、「賢い」と「小ざかしい」のように、意味は同じだが評価が異なる表現がある。
人工言語はできるだけ覚えやすくしようとするので、一般に単語をいたずらに増やすことを嫌う。
プラスとマイナスの表現を加えると、ひとつの概念に3語も必要になるので、「太っている」という中立的な表現だけ用意することがある。

しかしこれだと表現の幅が狭くなる。実際に言語を使っていて困るだろう。
「あら、おたくのお子さん、ふっくらして可愛いわね」という表現ができず、「太っているわね」としか表現できない。
相手は「あれ?もしかして貶されてる?」と思うかもしれない。

評価の表現は、プラス・中立・マイナスの3語が揃っていると、幅が広がる。
しかし3語も作っていられないというのが本音。(新生アルカの場合はむしろこういうのを嬉々として作りたがるタイプだが)

そこで、「良い」や「悪い」という形態素を中立の表現に繋げるというソリューションが考えられる。
例えばデブは「悪太」と表現する。これだと学習も作成も容易だ。制アルカは一時期こうしていた。

――が、果たしてそれって言語として機能するのだろうか?
「良太」で「ふくよか」を指すわけだから、それって「ふくらか」を「良い意味で太ってる」で表すということだ。
では、「おたくの赤ちゃん、ふっくらして可愛いわね」と、「おたくの赤ちゃん、良い意味で太ってるわね」では、どちらが円満な会話になるだろうか。
明らかに前者だろう。ふくよかという言葉が日本語になかったとしても、後者は避けたい。

なぜか?そもそも聞き手は「太っている」という単語を聞きたくないからだ。「太っている」がそもそも中立よりマイナスに近いからかもしれない。
逆に「あどけない」は元々ややプラスなので、「悪い意味であどけないね」と言うより、「幼稚だな」と言ったほうがグサっとくるはずだ。
こうしたことから、恐らく形態素「良い」「悪い」を用いて評価の表現を作っても、実用に耐えないと思われる。
「君って良い意味で身勝手だよね!」と女の子に言ったら嫌われるだろうし、「君は悪い意味で美人だな」ではピンとこない。「この雌狐が」と言えばすぐ理解される。(その後が怖いけど)

つまり、実用ベースで考えると、評価の表現はやはり地道に3語作るしかないのだ。
とはいえ、はじめからプラスとマイナスを作る気でいるなら、かえって中立を省いてもいいと思う。
というのも、評価可能な形容詞で中立なものを考えたときに、なかなか思いつかないからだ。例えば「赤い」は中立だが、良悪の判断ができないので該当しない。
一方、「高い」の場合は良悪が定まらない。例えば男性の背ならプラスだが、女性の背ならマイナスだし、値段でもマイナスだ。

まったく中立でしかも評価可能な形容詞をあげるのは難しい。もちろん探せばあるだろうが、わざわざ探すという時点で、そこまで多くはないということだ。
恐らく評価の表現というのは、その言葉を使う時点で既に良いか悪いか評価しているわけだから、中立は必要ないのだろう。
それで、中立を除いてプラスとマイナスだけ作れば、実用ベースに乗るのではないかと思われる。

さて、そうなると例えば評価に関する表現はひとつで2語作ることになる。
「太い」と「細い」は意味の対だが、「デブ」と「ふくよか」は評価の対だ。
さらに細い側の「ガリ」と「スレンダー」を足すと、さらに増えていく。

どう覚えやすくするかだが、原則として片方の語根を残してはいけない。
例えば「良くデブだ」という表現は、いくら「良い」があっても「デブ」がある時点でアウト。
同様に、「反デブ」という表現で「ふくよか」を表すのも、「デブ」があるのでアウト。

不美人という言い方や非論理的という言い方があるので、一見「反デブ」も大丈夫に見える。
だが、不美人よりもブスのほうがマイナスの意味が強いことからも、やはり不や反をつけただけでは意味がひっくり返りきらないことは分かる。元の単語の匂いというか影響が残っているからだ。
非論理的というようなあまり感情の篭らない語には接頭辞は有用かもしれないが、デブやブス類を表すのに接頭辞は実用的でない。

では、片方の語根を残さず、しかも規則的に造語するにはどうすればいいだろう。それには例えばアルカのメルテーブルのような方法が考えられる。
仮にbejaがデブだとしよう。また、b→v、e→o、j→z、a→iというように、音が規則的に変化するとしよう。対語を作るとき、必ずbはvになるというような約束だ。
この場合、スレンダーはvoziになる。まったくbejaの語形が残っていないので、聞き手は嫌な気持ちにならない。

さて、この方法の問題点を挙げよう。(問題点がなければ新生アルカが既にそうしているはずである)
規則的に造語するので変な音の組み合わせになるというのがまずひとつ。
そして何より、褒められた(or貶された)イメージが持ちにくい点だ。

デブやガリは音からしてあまり良さそうなイメージはない。
スレンダーは外国語っぽいので、なんとなく綺麗なイメージを持ちやすい。(一般の人の感覚はそんなもんである。フランス語や英語から取り入れた評価の表現は比較的良い意味が多い)
だが、bejaをvoziにするのはデブをブデと呼ぶようなものだから、褒められたんだか貶されたんだかよく分からない。
言われてもあまり嬉しくないものを、人類がわざわざ使うだろうか?

そう考えると、結局良い意味の表現は、それっぽい良い意味の語源を持たせて造語しないと実用されないように思われる。
例えばアルカでスレンダーはfiollixという。lixは細いという意味だが、fiolは「女のように細長い手足」の意味。これが付くことで「スレンダー」の意味になる。
同様に、悪い意味の表現も、なんとなく悪いものから由来しているとしっくりくると思われる。
例えば「地味な」はtuutというが、辞書によると「土の色のようにお洒落でない。土の色は農民を想起させるため」というところから来ている。
しかしこれを実現するには、何が良くて何が悪いかという価値観が必要になり、ひいては文化や風土が必要になってくるので、あまり簡単にできるとは言えない。

まとめると――
1:評価の表現はプラスとマイナスを作る。
2:プラスには良い意味の由来を、マイナスには悪い意味の由来を付ける。
――ということになろうか。