語学で一番難しいのは語法かなぁと思う。音の習得も難しいけど。
「腰を折る」をそのまま"break my waste"と訳したら、文法的には正しいのだけど、意味は伝わらない。
「腰を折る」をそのまま"break my waste"と訳したら、文法的には正しいのだけど、意味は伝わらない。
単語も文法も合っててしっかり発音もできてるのに伝わらないとか、ひどいじゃないか。
でも、それはそれだけ語法が大事だということだろう。
でも、それはそれだけ語法が大事だということだろう。
しかし、語法といってもなんだか曖昧な存在でとらえどころがない。それで、ちと分析してみた。
語法には語レベルとか句レベルなどといった段階があり、この段階ごとに分析すると若干体系化できそうだ。
語法には語レベルとか句レベルなどといった段階があり、この段階ごとに分析すると若干体系化できそうだ。
1:語レベル
waterは水のことだが、英語だと水が熱くてもwaterという横で、日本語だと「お湯」と言う。
これは語の指す範囲が異なることによる語法の違いといえる。
語レベルなので、恐らくこれが一番単純だろう。
これは語の指す範囲が異なることによる語法の違いといえる。
語レベルなので、恐らくこれが一番単純だろう。
名詞だけでなく動詞や形容詞にも言える。
日本語は寒いと冷たいを区別するが、英語だとcoldなので、範囲が異なる。
日本語は寒いと冷たいを区別するが、英語だとcoldなので、範囲が異なる。
一方、「来る」とcomeは視点の置かれる場所が異なるため、「今行くよ」は"I'm coming"になる。
これは動詞の指す範囲の違いではない。動詞の意味の違いだ。
範囲だけでなく意味の違いも語法の違いを作る。
これは動詞の指す範囲の違いではない。動詞の意味の違いだ。
範囲だけでなく意味の違いも語法の違いを作る。
2:句レベル
上で挙げた「腰を折る」など、句レベルの違いのこと。
「トイレを借りる」とは言うが、"borrow the toilet"とは言わない。"use the toilet"と言う。
これは範囲の違いでも意味の違いでもなく、コロケーションの違いだ。
「トイレを借りる」とは言うが、"borrow the toilet"とは言わない。"use the toilet"と言う。
これは範囲の違いでも意味の違いでもなく、コロケーションの違いだ。
3:構文レベル
"The earthquake broke the window"を直訳すると「地震が窓を壊した」となる。
文法的には正しい日本語だし、単語のミスもないし、窓は壊れるものだからコロケーションも問題ない。
文法的には正しい日本語だし、単語のミスもないし、窓は壊れるものだからコロケーションも問題ない。
でも何かおかしい。
それは擬人法っぽく見えるからだ。
それは擬人法っぽく見えるからだ。
英語の場合、無生物が主語に立ちやすいので、このような構文を取る。
しかし日本語なら「窓が地震で壊れた」という構文を選ぶだろう。
しかし日本語なら「窓が地震で壊れた」という構文を選ぶだろう。
間違いではないが違和感を感じる。
こういうものは構文レベルの語法の違いと言えるだろう。
こういうものは構文レベルの語法の違いと言えるだろう。
4:成句レベル
特に口語表現でよくあるのだが、口語的な成句は最も学習しにくいものだ。
「そりゃそうね」、「どうかな?」、「それはさておき」、「〜といえば」、「よくしたもんだ」
「そりゃそうね」、「どうかな?」、「それはさておき」、「〜といえば」、「よくしたもんだ」
――などなど。これらの表現はこの塊で初めて意味を持ち、単語ごとに分けて分析しても何も出てこない。
もちろん直訳したところで何の意味も成さない。成句が長いだけに、こういうのは覚えるのがとても面倒くさい。
英語の授業でも"in an attempt to〜"など、長い成句を覚えさせられて面倒だったことだろう。
もちろん直訳したところで何の意味も成さない。成句が長いだけに、こういうのは覚えるのがとても面倒くさい。
英語の授業でも"in an attempt to〜"など、長い成句を覚えさせられて面倒だったことだろう。
大した意味も持たない単語がくっていて一定の意味を作るこうした成句は単語レベルに分析しても元の意味を演繹できない。
これが成句レベルの語法の違いで、実はかなり厄介だったりする。
これが成句レベルの語法の違いで、実はかなり厄介だったりする。
5:文レベル
文法も単語も構文も正しいが、そういう言い方はしないなというレベルの語法。
「あなたは私の妹と私の家の中で話した」という文は、文法的にも構文的にも正しい。
だが、なんだか翻訳調で不自然だ。
だが、なんだか翻訳調で不自然だ。
いちいち日本語は「私の」とか言わないし、「あなた」は喧嘩腰に聞こえるので使わない。
「家の中で」というのも正しいが妙で、ふつうは「家で」と言う。
文としては正しいのに、違和感を感じる。
「家の中で」というのも正しいが妙で、ふつうは「家で」と言う。
文としては正しいのに、違和感を感じる。
しかしこれは句レベルの違和感を文レベルにまで累積させたものと捉えることもできる。
では次のような例はどうだろう。
では次のような例はどうだろう。
「先生がおっしゃる」と「ガキが来やがる」はどちらも違和感がない。
しかし「先生が来やがる」と「ガキがおっしゃる」は違和感がある。
しかし「先生が来やがる」と「ガキがおっしゃる」は違和感がある。
これは句レベルではない。句レベルで問題があれば、入れ替える前の「先生がおっしゃる」の時点で違和感がなければならない。
入れ替えたことで、「先生」という問題のない語と「来やがる」という問題のない句の間に初めて生まれる違和感なので、文レベルといえる。
入れ替えたことで、「先生」という問題のない語と「来やがる」という問題のない句の間に初めて生まれる違和感なので、文レベルといえる。
6:文脈レベル
何から何まで正しいのだが、果たしてそういう言い方をするものかというレベルの違い。
ここまで来るともはや語用論の範疇になってくるが、自然な言語運用のためには重要だったりする。
ここまで来るともはや語用論の範疇になってくるが、自然な言語運用のためには重要だったりする。
近所の人とすれ違えば、日本人もフランス人も「こんにちは」とかボンジュールなどと言う。
一方、日本人はスーパーでいちいち店員に挨拶しないが、フランスだとふつう言う。何も言わないでドンと籠を置くと、とても嫌がられる。
一方、日本人はスーパーでいちいち店員に挨拶しないが、フランスだとふつう言う。何も言わないでドンと籠を置くと、とても嫌がられる。
また、映画館でチケットを買うとき、日本語だと「大人2枚」などというが、フランス語だとシルブプレを最後に付けることになっている。
そこでそれを言うのはおかしいとか、そこでそれを言わないのはおかしいというのが文脈レベルの語法だが、これが意外と重要だ。
なにせ、円滑なコミュニケーションはこれにかかっている。
そこでそれを言うのはおかしいとか、そこでそれを言わないのはおかしいというのが文脈レベルの語法だが、これが意外と重要だ。
なにせ、円滑なコミュニケーションはこれにかかっている。
一方、アルカではよくtu et axmaという文を口にする。
直訳すると「それは論理的です」で、日本語にしてもなんらおかしいところはない。
直訳すると「それは論理的です」で、日本語にしてもなんらおかしいところはない。
では会話の中で相手の言ったことに日本人がしばしば「それは論理的です」と言うかというと、言わない。
しかしアルバザード人は頻繁にその文を口にする。
しかしアルバザード人は頻繁にその文を口にする。
もし「それは論理的です」と日本人が連呼したら、なんだかヘンな人だと思われるだろう。
文としては正しくとも、文脈として日常会話で使う文ではないからだ。
文としては正しくとも、文脈として日常会話で使う文ではないからだ。
まとめ
語法の違いをレベルごとに見ていった。
語法の違いは、まったく相手に意図が通じなくなることもあれば、意味は通じるが不自然に感じるということもあり、幅が広い。
語法の違いは、まったく相手に意図が通じなくなることもあれば、意味は通じるが不自然に感じるということもあり、幅が広い。
以上を踏まえて人工言語的に考えると、これらの語法をすべて定めるのは極めて困難だと思われる。
アポステリオリの場合は使用者ごとに語法が異なり、上記で挙げたような齟齬が起こることになる。これは普及型にとってはゆゆしき問題だ。
一方、アプリオリの場合は語法を設定する労力が大きすぎるという問題が出てくる。
すると、どちらを作るにせよ、語法は作りこむ必要があるということになる。
アポステリオリの場合は使用者ごとに語法が異なり、上記で挙げたような齟齬が起こることになる。これは普及型にとってはゆゆしき問題だ。
一方、アプリオリの場合は語法を設定する労力が大きすぎるという問題が出てくる。
すると、どちらを作るにせよ、語法は作りこむ必要があるということになる。
語法は文脈レベルなど、大きなレベルになるほど作業者の意識に上りづらいので、このように段階ごとに分析して考察することは後の作業の効率化につながると思う。