英語で声が高いことも大きいこともloudというが、これは的を射ている。
一般に大きい声は高い。逆に言えば小さい声は低い。

一方、人間は肺臓気流を利用して言語音を出している。
肺は風船のようなものだから、文末あるいは最寄のブレスに向けてどんどん萎んでいく。

これらを合わせると、なぜ人間の言語は文頭が一番高く、文末にかけて緩やかにダウンステップしていくかが分かる。
アルカも日本語も英語もこの自然の摂理に従うものの、はたしてこの発声法は完全に合理的といえるのだろうか。

人間は、高い声は訓練次第で出せるが、低い声は出せないようになっている。声帯の造りで、低い声は限度がある。
つまり、音の低さの最低値が固定されていると考えればいい。

さて、となると文末に向かって音声が下がっていく言語では、最低値をこれ以上下げることができないため、最高値を上げることになる。
つまり、文頭をあらかじめ高くしておく必要がある。

このような言語は音域が広く、高音から最低音まで広く使うことになる。
日本語はわりとそのような言語である。
英語は飛んだり跳ねたりといった印象を与えるが、日本語は坂を跳ねながら転がるボールのようにダウンステップしていく。

さて、高い音を出すということは、それだけ大きな声を出すことにつながるため、エネルギーがかかる。
そこで、日本語式の発声は本当に合理的かという疑問が生まれるわけだ。

もっとも、文末で低くなるので、逆にこの部分は小さい声で話せるからエネルギーが低いかもしれず、高い声でのエネルギーロスと相殺できるかもしれない。
ただ、不思議なもので人間は最低音を出すときはかなり喉を締め付けるので、息苦しく筋肉も緊張し、エネルギーを使う。高い声とは異なったエネルギーを使うのではないか。

そう考えると、最も効率的なのは、最も出しやすい地声(中音域)を使い続けることではないだろうか。
もっとも、肺臓気流の現象に従ってある程度自然と声は低くなるだろうから、結局は中音域を緩やかに低くしながら話す言語が最もエネルギーロスが少ないのではないか。

新生アルカになって「連結」というイントネーションの頻度が増え、名詞+形容詞が「連結」で話されるようになった。
形容詞以外でも連結が増え、文全体での抑揚の幅が狭くなった。まさに中音域を緩やかに下げていく言語になった。

この記事は、その言語を喋っていて思いついたことだ。
私は昔から喉が細く、話しているとすぐ締め付けられて痛くなる。
ところが最近アルカを話しているときはあまり喉が痛くならないことに気付いた。
なぜかと考えたところ、この記事で書いた理由に思い当たったのだ。