第一点。私は格差が嫌いだ。
貧しい人間が居て苦しんでいる横で豪勢な食事ができる人間の心理が分からない。

子供のころから、強い人間を見ると嫌に攻撃的になる性格だった。逆に弱い者には同情的だった。
ごく小さいころ、自分の家は「持つ者」だったが、それでも持つ者を嫌悪していた。椅子取りゲームに興じる商人的な汚さを最も蔑んだ。
その後、青年期でむしろ「持たざる者」に転落したが、やはり持つ者を嫌悪していた。生粋の格差嫌いということになろう。


本題。格差が嫌いなため、どうしても平等な世の中を目指そうと考える。
頑張った人間にはそれなりの対価。サボった人間には適度な罰則。しかしその差はあくまで狭い。
一人が資本論のチーズ工場経営で、一人が蟹工船の船員ということはあってはならない、ということを言っている。
そしてこれが本当の意味で平等な社会だと考える。
しかし、世の中には以下のような救えない人間がいることを知っている。だからこの矛盾に苦しむ。

「平等な世の中は良く、清貧は素晴らしく、自分だけ抜け駆けなどする気はない」と考えている人間は実は少数なのだ。自分だけが良ければ良いという人間は意外に多い。
人が見ていなければサボろうという、信念のない人間がいる。サボっていいのは正当な対価が得られないときだけだ。
居ない人間の陰口を平気で叩く奴がいる。自分が悪いのに被害者面して泣き喚く女がいる。

どうも地獄はこの世にこそあるのではないか。彼らを見ているとそう思う。
逆にいえば、私が思う平等な世の中とは、天国のことなのではないか。
とするなら、この世には天国と地獄が既に混在しているのではないか。
私の問題は、天国の住人が地獄の住人に敷地を蹂躙されたときに感じる不快感や恐怖にほかならないのではないか。

そこで私の出した結論は、地獄の住人が改心しないかぎり、切り捨てるべきというものだ。
しかしこの世の経済はこの手の連中が牛耳っていることが多いので、現実に切り捨てることはできない。
ならば、せめてどう天国の住人を悪魔から隔離するかという問題になる。

こんな冗談を考えた。
日本の無人島を遺産として割譲された青年が、天国の住民のみによる会員制の社会主義国家を作るというものだ。
善意ある人間のみで動き、異端ならば刑を与えるのではなくただ追い出すだけ。
善意だけで社会が回るかどうかを実証してみる――という冗談のような小説だ。
仮題は『会員制社会主義島』

冗談はさておき、現実には天使たちはそんな島を買う金がないので、自分自身を防衛する手段を身に付けるべきだと思う。
それが穢れからの回避だ。ウィルスにせよ花粉にせよ、結局のところ一番の予防は接触しないことなのだ。
しかし、悪魔は会社や学校に入り込んでいるので、必ず接触してくる。ならその花粉を吸わなければ良い。
ただひたすらに水が流れるのを静観するがごとく、無視。
天国の住人は悪魔の声に耳を傾けない。それが最も優れた感染予防だ。

また、天国の住人は人を救う重荷を背負う必要はない。
救うに値しない人間は放っておくとして、貧困に苦しむ子供なども救えない人間に入る。
これは救えないというより、「救うことができない」といったほうがいいだろう。
結局第三国で食えない人間の横で、我々日本人は食っているわけだ、冒 頭 の よ う に。

だからといって個人レベルで寄付をしても焼け石に水なのだ。根本的な問題の解決にはならない。
そしてその責務を天国の住人が追う責任はない。善意者は責任者ではない。自分は余りに小さな存在だと知ることもまた重要なことだ。
「黙って寄付しろ」だの「どうせ救えないのなら喋るな」だの、こういう言葉はよく耳にする。
実際、私の中にいる悪魔もごちゃごちゃと騒ぎ立てることがある。だがこれらの言葉は道徳や倫理を捨てる免罪符にはならない。
たとえ実現できなくとも、道義を弁えることがすべての開始点となる。土台がなければ、そこに塔を建てる希望さえもなくしてしまう。