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/ [歴史]暦、こよみ
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[文化]
霊界ができたのが約137億年前。アルテもこのとき生まれた。太陽系が46億年前に生まれ、地球が45億年前に完成した。地球の完成と同時期にlunoが生まれ、失敗してardelへ行く。
その後lunoがarteからviidを奪ったおかげである程度arteの膨張は食い止められたが、まだardelからviidが流れてくるため、再膨張をし始めた。
最初の暦はアルテがセルトに分裂したところから始まる。これをセルト暦といい、6393万8965年間続く。63938964年にサールがユーマを懐妊し、翌5年に出産。同時にテームスが生まれ、同年テームスはメルティアを含む悪魔を産む。この時の司メルティアがメルティア暦の始まりなので、セルト暦は6393万8965年間続いたことになる。
メルティア暦元年はセルト6393'8965に等しい。メルティア暦はちょうど104万年続いて終わる。神々が10進法を編み出していたため、神も人間たちも区切りのいい万の位で次のユーマ暦のために暦を改めた。ここまでの経過は6497万8965年。
ユーマ暦はちょうど8080年続く。この理由も同上だが、人類の寿命が短くなるにつれ、10年のような小さい単位で暦が改められるようになっている。ここまでで6498万7045年が経過している。
ユーマ8080年は次のイムル暦元年に相当する。イムル暦は1588年間使われた。イムル1588年が次のメル暦元年に等しい。ただしメル暦が実用されだしたのは実際1600年代に入ってからなので、歴史書物の中にはイムル1600年代の署名のものが存在する。1600年ごろに書いた人は今後もイムル暦が使われると思っていており、1588年に生まれていた少女メルの年齢を元にしたメル暦によって繰り上げるようにイムル暦が短くなるとは予想できなかったためである。ここまでの経過は6498万8633年。
イムル暦の後のメル暦は480年続いた。転生した使徒たちの死とともに世界は終焉し、宇宙も終わりを遂げる。ここまでの経過は6498万9113年。
<セルト暦>
セルト暦のころは年に1回しかアトラスに来なかったため、1年をカウントする必要しかなかった。逢瀬はちょうど後のディアセル(地球でいう7月19日ごろ)に行われた。ディアセルと逢瀬の日が重なることをこの時代の神々はまだ当然知らない。
<メルティア暦>
メルティア暦になるとアトラスで神々が暮らすため、日を数える必要が出てきた。アルミヴァはセルトの逢瀬の日がちょうど自らの誕生日でもあるため、これを祝うために、逢瀬の日を一年の始めとした。何回アトラスから太陽が見え隠れすれば誕生日になるかを知るためクレーヴェルが観測したところ、およそ365日の周期でアトラスが太陽の周りを公転していることを見つけた。太陽年を見つけたということである。そこで1年を365日に割ったが、太陽年は実際には整数ではないため誤差が生じる。そこで地球のグレゴリオ暦と同じ計算法を作り、閏年を設けた。
なお、この時点は現代から見て100万年ほど昔の出来事だが、太陽年は年々変わっていく。それはどのくらいかというと、2000年で約10秒伸びるので、100万年で5000秒太陽年が長いことになる。これはおよそ83分であり、神々の時代は1年が今より83分ほど長かったことになる。しかしそれでも太陽年は約365日であり、グレゴリオ暦と同じ計算法が成り立つ。日付の読み方については、まず月という概念がないため、何年の何日目という呼び方をしていた。神のように賢いものだからこそそのようなずさんな表現でも対応できるが、我々人類には使いにくいことだろう。
meltia 99'9872年になると、神々が農耕を始め、月単位での農耕計画を立てる必要が出た。カルテ神がクレーヴェルと協議し、月の満ち欠けを元に1年を10の月に分けるようにした。農耕に適切な時期は地球でいう3月から12月で、1月と2月は暦が不要とされ、月が存在しなかった。ミュシェットである。そこで3月を元旦とするよう暦が改められ、7月19日ごろの聖誕祭は祭日となった。これ以降のメルティア暦では3月が1月となる。
月の公転周期はおよそ27.32日だが、満ち欠けの周期は29.53日である。アトラス暮らしに慣れた神は満ち欠けを基準に考え、29日の月と30日の月が交互に繰り返すようにした。元旦の日付は毎年決まっているわけではない。3月ごろになったら最寄の新月が元旦となる。そしてそこから29、30、29、30、29、30、29、30、29、30と10ヶ月続けていく。こうするとおよそ地球の12月で一年が終わる。
後述するユーマ暦と違って規則的に小月と大月が繰り返されるのは、1年のうち10ヶ月しか暦がないためである。純粋な太陰太陽暦のように1年中どの日も日付があり、またその暦を何年も繰り返し連続して使うと、このような規則的な小月と大月でいられなくなる。29,30を繰り返していくと誤差が生じ、ある月のついたちが朔にならないようになる。ただし、そのずれはわずか10ヶ月なら小さい。また、メルティア暦では次の年の始まりは次の春の朔からスタートするため、ずれが毎年解消される。そこでメルティア暦では規則的に小月と大月が並んだ。
なお、日付の読み方は日本と同じで「何月何日」という読み方であった。月がない日については特になんと呼ばれることもなく、今日や昨日や3日前といった表現で済ませていた。
このように、太陽暦ができて約100万年使われた後にようやく太陰暦ができたというわけである。その太陰暦もできたと同時に太陰太陽暦として組み込まれたため、単体で太陰暦が使われたことはなかった。これらの暦は神を通してユーマの一族にも伝わった。実際に太陰太陽暦ができたのはメルティア暦の終わりごろであるから、メルティア暦自体は単なる太陽暦と見てよい。メルティア暦は約100万年が太陽暦で、残り約4万年が太陰太陽暦である。
<ユーマ暦>
ユーマ暦になると戦史の記録や貨幣の登場による経済活動や経理関係の作業の関係で、月のない日についても日付を定義する必要性が出てきた。メルティア暦は月なしのある不完全な太陰太陽暦だが、これを完全な太陰太陽暦に改めた。一年の始めを冬至(地球でいう12月22日ごろ)にし、1年を12ヶ月に区切った。太陰暦では1回帰年の近似値である12ヶ月を1年とした場合、1年が354日となり、太陽暦に比べて約11日短くなる。このずれが3年で約1ヶ月となるので、約3年に1回閏月を挿入する。閏月を19年に7回挿入すると誤差がなくなる。この暦はyuuma 5年にレスティル南岸在住の召喚士がユルグとクレーヴェルを召喚して相談して定めたものである。従ってyuuma元年のころはyuuma暦はなかったことになる。これはメル暦と同じである。この召喚士は現カテージュに住んでおり、漁師らの要望で太陰暦を正確に太陽暦に組み入れようとしたものである。潮の満ち引きの関係で漁師にとって太陰暦は重要であるため。
月の満ち欠けはおおむね29.5日であるため、29.5*2=59で、これは29+30に等しい。よって1月が29日になる小の月と、30日になる大の月を繰り返す。このノウハウはメルティア暦と同じであるが、29,30と規則的に繰り返すとついたちが朔にならないことがある。それを微調整すると大月が何月に来るかは毎年変わることになる。従ってyuuma暦は非常に複雑である。
1年は354日である。1年の長さがメル暦に比べて11日ずれる。そこで閏月を挿入し、13月目を設ける。ゆえに、年によってずれが貯まってくると季節が1月近くずれてしまうことになり、農耕ではやや不便なことがある。
また、アズゲルから農耕の都合で1年を24節気に分けるようになったため、節気と暦のずれが生じてしまう。そこで閏月は最も節気と暦のずれが生じない位置に入れられた。閏8月など、適宜挿入する位置は変えられた。
1年の長さは確かにメル暦より短いが、3年スパンで見れば日数は等しいので、ユーマ暦を使っていたころのほうが1年が短かったということはない。
ユーマ暦はそれが作られた年の5年前が元年であり、5年前の冬至を元旦として遡ってスタートした。従ってyuuma 0における冬至の日付が開始点となる。冬至は毎年少しずれるので、必ずしも各年の元旦が冬至とは限らない。
また、ユーマ暦で始めて週の概念ができた。29は素数なので近い数値である28で考えると7*4で割れるため、1週間を7日とし、ソームの名を冠した。
日付の読み方は月が12ヶ月になったため、月はアルミヴァの名で読まれるようになった。日については数字である。日本語よりも英語の読み方で考えるといいだろう。
<イムル暦>
イムル暦になるとふたたび太陽暦に代わった。太陰太陽暦は閏月を挿入するのが面倒で、年ごとの季節のずれが大きい。例えば日本の関東だと7月7日といえばたいてい曇っていて天の川が見えないとか、11月23日はよく晴れるといった規則性がある。これは太陽暦ならではで、太陰太陽暦ではこうはいかない。また、大月が何月に来るかも毎年異なり、閏月の挿入される月も毎回異なる。非常に複雑な暦であり、使いづらい。これを解消すべく、グレゴリオ暦と同じような太陽暦がイムルによって作られた。太陽暦自体は初期のメルティア暦と同じだが、一年中月も日もある暦なので、メルティア暦より進化している。
365日を30日と31日の月に分けると、31日の月が5回来ることになる。これを太陰太陽暦の名残で小の月と大の月と呼ぶ。そして冬至の元旦から1月2月と始めて12月まで続ける。このとき31日になるのは2、4、6、8、10の偶数の月である。グレゴリオと違って規則的に31日が来る。そして4年に一度の閏年の場合、閏日は12月の終わりに来る。こうすることで偶数の月のみに大の月が来るようになる。余計な紆余曲折がなく制定されたため、グレゴリオよりも体系的で分かりやすいといえる。
イムル暦の読み方はユーマ暦と同じで、アルミヴァと数字で読まれた。例えば「セイネルスの23日」というように。
<ユーマ暦とイムル暦の移行問題>
太陰太陽暦のユーマ暦では19太陽年に7回閏年を挿入した。これは235朔月が19年太陽年にほぼ等しいことを利用している。19太陽年は365.242194日×19=6939.601686日で、235朔望月は29.530589日×235=6939.688415日である。まったく同じ数値ではないため、約0.09日ずれる。つまり、19年につき0.09日ほどずれが生じる。すると211年すなわち約200年でおよそ1日のずれが生じることになる。
ユーマ暦は8080年も続いたため、当然改暦が繰り返された。時の王たちはキリのいい200年に一度の周期で規則的に改暦を行った。最後に改暦されたのはユーマ8000年である。さて残り80年だが、19年で閏月の調整が終わるため、8000〜8075年の76年間でずれが調整される。この間に生じるずれはおよそ0.36日で、約1/3日であるから、およそ8時間太陽年のほうが遅いことになる。
76、77、78、79年の4年間で平年は3回あり、閏月は1回入る。平年では太陽年365日に対して約−11日、閏年は約+19年の差が生じる。76〜79年で平年・平年・閏年・平年の組み合わせだと、−11−11+19−11で約−14日となる。8000年は改暦を行って、冬至から最も近い朔を年始にしている。これはユーマ0年とほぼ同じである。ユーマ0年で年始とした「冬至から最も近い朔の日」ができるだけずれないよう200年に一度改暦を行っているので、ユーマ8000年の年始も「冬至から最も近い朔の日」になる。
ユーマ0年は西暦でいうと−7080年に当たる。−7080年における「冬至から最も近い朔の日」はグレゴリオ暦でいう12月14日に当たる。15日の0時ちょうどの時点で現アシェルフィから観測すると月齢は0.1だからである。冬至は12時に観測されるが、冬至から近い朔の日は昼に観測する合理的な理由がないため、日の改まる0時で測った。観測でなく「測った」といったのは、この時間アシェルフィから月が見えず、朔の月が太陽に程近いくじら座の周辺にいるためである。
ユーマ8000年は西暦でいうと320年に相当する。ここが最後の改暦であるが、320年12月15日は0時の段階で月齢27.1であるから、この日が年始ではない。17日で29.1、18日で0.5となるため、朔になったのは17日の昼ごろ。従って320年12月17日が改暦されたユーマ8000年の始まりとなる。
ここから76年経って8076年になると西暦396年であるが、8076年の空を見てみると、12月17日0時の段階で月齢28.6、18日で29.6、19日で0.9となっている。17日でなく18日が朔になるのは、比較に使っているグレゴリオ暦の閏年の影響である。ユーマ暦の中で見ればきちんと76年で閏年のずれが解消されている。ユーマ8076年の始まりは西暦396年12月18日となる。
さて、上述のとおり76、77、78、79年の4年間で平年は3回あり、閏月は1回入り、8080年の年始は「冬至から最も近い朔の日」から見て−14日となる。8080年、すなわち西暦400年の「冬至から最も近い朔の日」はいつだろう。まず400年12月18日の月齢が14.8で、満月である。太陰太陽暦における閏月の挿入法は、「365日に対して1年が354日しかないので、ある期間で閏月を入れて補う」というもので、常に陽暦のほうが陰暦より進んでいる。従って400年12月18日という陽暦は進んでいることになるため、この月齢14.8を次の朔に進めるのではなく前の朔に戻すことで本当のユーマ8080年の年始がわかる。なお、「補う」という考え方に基づくと、76〜79年の間で2回閏月が来ることはないと分かる。8076年で既に19年サイクルは終えているので、8076年からまたずれのサイクルが再スタートする。にもかかわらずこの76〜79年の間に閏年が2回来ることは計算上ありえない。平年2回の閏年2回だと−11−11+19+19で、正の値になってしまい、陰暦が陽暦を超えてしまうからである。
さて、月齢を戻していくと、12月4日で0.8となる。4日の時点では既に朔になった後なので、朔を迎えるのは12月3日である。この日の0時に月齢は29.3となり、日中に朔を迎える。従って400年12月3日がユーマ8080年の年始である。
ではこの年の見かけ上の冬至はいつであったろうか。この時代は既にユーマの一族の時代であり、カコの時代である。神と違って既に宇宙空間に人は飛んでいけなくなった時代である。また、科学技術はアレイユに比べてまるで進化していない。そこで当時の冬至は南回帰線から見て12時に太陽が天頂を通過する日で求められたことになる。そしてその日は西暦でいうと400年12月18日である。ユーマ8080年の年始はグレゴリオでいう12月3日だから、この年の冬至をユーマ暦にするとユーマ8080年1月16日に当たる。
ユーマ暦は冬至を基準点とするため、イムル暦に移行する際に12月3日を以って移行してしまうと、ユーマ暦最後の冬至がユーマ暦に含まれなくなってしまう。もともと太陰太陽暦は冬至から見て毎年11日ほど足りなくなるのを補っていくので、1月中に冬至を迎えることが多かった。もし1月1日にイムル暦に移行した場合、8080年の冬至がなかったような錯覚を覚える。そこでユーマ暦に最後の冬至を与えるために、ユーマ8080年1月16日を含んだ月、つまりこの年の1月をユーマ暦最後の月とした。そしてこの冬至が終わり、月が次の朔になった時点を以って完全に太陰太陽暦であるユーマ暦を終え、同時にイムル暦を始めることとした。さて、では西暦400年12月3日で朔を迎えた月は、いつ次の朔になるだろうか?アシェルフィから観測すると、西暦401年の1月1日である。1月1日に28.8で、1月2日に0.1となる。1月1日の20時30分ごろにちょうど新月になるため、朔になる日は1月1日である。よってイムルはこの日を以ってイムル暦の紀元と定めた。すなわち西暦401年1月1日がイムル0年1月1日となる。
ところがイムル暦の運用をユーマ8080年に認可して公布した英雄アルシェが、その発表演説において「本日を以ってイムル1年1月1日とする」と国民の前で発言してしまった。セイネルスと言わなければ1ばかり並ぶ数であるというのと、物はふつう1から数えるものだという常識と、実際に世紀の場合は1から数えることなどが原因で、アルシェは年号も1年から始まるものだと誤解していた。大統領演説に相当する発言であったため、イムルは主君の恥を晒すわけにはいかず、イムル暦を1年から始めることにした。従って、唯一歴史上イムル暦のみが0年を持たないことになり、西暦401年1月1日がイムル1年1月1日となった。後にイムルは便宜上この紀元から366日(イムル0年は閏年なので)戻した日付をイムル0年の1月1日とした。従って、西暦400年1月1日がイムル0年1月1日に当たる。
<アルディアとの関連>
アティーリの中でカコとアルディアは現実に基づいている。中でもアルディアは情報が豊富で新しく、具体的な日付の分かる出来事が元になっている。簡単にいえば、1900年代後半のアシェットの歴史が元になっているので、できればイムル暦でも同じ日付になってほしい。ところが異世界なのにどちらの暦でも年始が1月1日になることなど到底ありえない。そう思ってメル20年までずっとイムル暦の具体的な内容は決められておらず、なんとなく冬至を紀元とすると定められていた。
ところがよくよく天体を観測してみると、ちょうど401年の1月1日にアシェルフィで朔になる(眼では見えない)。ユーマ暦が太陰太陽暦だったと決まったので、これと合わせれば、地球と同じく1月1日を紀元とする暦を作れるのではないかと考えた。そこでイムル1年の元旦を地球の西暦401年の元旦に合わせた。もっとも、このころ地球はグレゴリオ暦でないので、400年代のことだけいえばまるで役に立たない。
ところが実際上記アルディアに使うのは1900年代の話だけである。1981年にセレンが生まれ、84年にリディアが生まれたというような、主に1900年代後半に使えればそれでよい。そして1900年代後半は地球もグレゴリオ暦である。そう計算していくと西暦1984年はイムル1584年になる。
しかし1月1日が同じでも閏年の来るタイミングが違うのでずれが生じるのではないかと思うだろう。だがずれはない。なぜならグレゴリオ暦の計算だと4年に一度閏年があり、100年に一度閏年がなく、400年に一度閏年があるから、きっかり西暦と400年ずれているイムル暦に閏年のずれはない。イムル暦を400年ずらしたのは2003年ごろのセレンの知恵だが、こんなところで役に立つとは思わなかった。当時はイムル暦は冬至スタートだったので、400年のずれで閏年の差を解消しても大した意味はないと考えていたからだ。
{さて、というわけで今後アルディアを書く際に非常に便利になった。リディアは7月19日生まれになるし、ディアセルも7月19日ごろでなくズバリ19日といえるようになった。
なお、イムル1600年は閏年でないが、西暦2000年は閏年なので、2000年以降はずれが生じる。しかし現実のアシェットでは2000年を過ぎたころから徐々にメル暦を使い始めていたため、残っている記録はメル暦で記されていることが多い。なのでまったく問題がない。
1月1日がちょうど401年で朔になったのはセレンが操作できることではないからまったくの奇跡であるが、つくづくセレンは天文に恵まれていると思う。メル暦で1月が28日なのも使徒が偶然28人だったからで、27だったら一週間が7にならないし、1年のあまりも大きい。29でも同様だ。28は奇跡的だ。4週あって1週が7日で、13ヶ月で364日になってミュシェットが1日で済む。
もっと奇跡だと思ったのは天文のところで以前述べたとおり、1988年11月30日の0時にアシェルフィでアルデバランが南中する件だ。あれも極めて奇跡的である。そして今回のイムル−グレゴリオの紀元重複である。奇跡がここまで連続することがあるだろうか。しかしメルの誕生日も使徒の数も401年で朔になることもセレンがどうにかできることではない。}
<メル暦>
imul 1600を過ぎ、17世紀に入ると、アシェットが台頭した。イムル暦は月に大小があり、毎月の長さが異なる。ある特定の日付が何曜日であるかも毎年ずれる。これらを解消するために第7使徒メルは1月を使徒の数の28日にし、1年を13ヶ月とし、年末に月無しの1日ないし2日を組み込んだメル暦を考案した。これにより、1月の長さが均等で曜日と日付のずれない暦ができあがった。月めくり式のカレンダーは不要になり、曜日の概念さえもしばしば不要になった(とはいえ、エルヴァから次のエルヴァというような使い方を日常的にはするので曜日はまだまだ必要)。メル暦になると開始点がメル=ケートイアの誕生日になった。イムル1588年の11月30日である。また、天文学的にもこの日は本初子午線を決める大事な日である。メル暦は転生期まで使われ、最後の暦となった。