掲示板で末広さんと普遍論争の話になった。
それで、以下別途、普遍論争について考えてみた。

・真名とイデア

エルトとサールの言語はエーステという概念に基づいて作られたものだ。
エーステは真名なのかイデアなのか考えてみたが、真名に当たると思われる。
というのも、セルトが名付けたのは目の前の具体的な空や花だからだ。jinaやminaというイデアを命名したわけではない。

100本のチョウノスケソウがあれば、その100個の個物がそれぞれaspilという真名を持つ。
と考えると、aspilはイデアでないことになる。
本来人間の言語はこうしてできたはずだ。

・類の獲得

何羽もカラスを見ているうちに、だんだん普遍的なカラスの定義というものを考えるようになる。
「鳥で、黒くて、カーと鳴くもの」という定義を帰納する。
その定義に当てはまるタイヤキの鋳型みたいなものがカラスの普遍概念として抽出される。
これが類の獲得だろう。

セルトも何本ものaspilを見てaspilの類を獲得したと思われる。

・類は存在するか

で、この類というものが実在するかどうかで実在論か唯名論か分かれることになる。
以下引用。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89
オッカムのウィリアムなどの唯名論者は、人間の類の概念、すなわち「人間の普遍概念」は形相的に実在するのではなく、古代のアリストテレスが考えたように、実在するのは具体的な個々の個物であるとした。つまり、人間のミケーレや犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである。このとき、「普遍概念」は、類を示す「名前(nomen)」であり、名前は「言葉」として存在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。極端な唯名論を唱えたロスケリヌスは、普遍は音声の風(flatus vocis)にすぎないとしている。このような考えを「唯名論 Nominalisme 」と云う。


言語の力を過信するなら、唯名論の解釈になるだろう。
神話はアルカに霊力を持たせたいのだから、唯名論を取ると思われる。

ただ、それは神学的な解釈だ。
哲学的にはセルトの言語を実在論で解釈することもできるだろう。
恐らくアトラスの哲学にも普遍論争はあったのだろうと思われる。


ところで類は存在するかだが、セレンの考えでは「ある」。
つまり、セレン個人は実在論を推す。

狐を見たとき、僕はそれが狐だと判断できる。
しかし狐を正確に描けと言われたら、細かいパーツが分からず、描けない。

人間は狐を判断できるのに、狐を描くことができない。なぜだろう。
それは記憶の仕方がフォトショップでなくイラストレーターだからだ。
psdデータはラスターデータで、非常に重い。aiデータはベクターデータで、非常に軽い。
psdデータは正確にピクセルの色と位置を記憶しているが、aiデータは円や四角といった単純な形の描き方しか記憶していない。
で、人間の記憶は恐らく後者だ。鈴木さんを見て鈴木さんと分かるのに、じゃあ鈴木さんの似顔絵を描けと言われると描けないのは、特徴だけ覚えているからだ。

人間はベクターで記憶している。それは容量が軽いからだ。容量が重いと記憶しきれない。
恐らく狐やチョウノスケソウもそのように大雑把に記憶している。
そしてこの大雑把な記憶を同定材として使い、一致率が高いときに同定とみなすわけだ。
鈴木さんとよく似た佐藤さんを見て人違いをすることもあるが、そういう間違いは少ないので、日常的には容量の軽いほうを選ぶ。

そう考えると、僕らの脳には猫や狐や花を同定するための大雑把なデータが入っている。
この大雑把さは2つの利点がある。
1つは容量が軽いこと。
1つは複数の個物が互いに少しずつ異なっていても同じものだと認識できること。
欠点かと思う不正確さが実はこの世で生きる上では利点になっている。
大雑把だからこそ、少しずつ違う2匹の猫を猫だと認識できる。

さて、このように考えていくと、この「大雑把なデータ」こそが類なのではないかと思う。
言い換えれば、類は人間の認知が生み出した主観的な存在なのではないかと思う。
認知を介在しない脱人間化された類は存在しないと思う。
人間がいなくてもチョウノスケソウは存在するが、それは物体だからだ。
「大雑把なデータ」や「人間関係」や「性的倒錯」などは人間がいなければ存在しえない概念だ。
概念の中には自然に存在するものや、人間の脳内に存在するものがあり、大きく二分できる。
後者は人間がいないと存在できない。「大雑把なデータ」は後者なので、類つまり普遍概念は人間なしでは存在しえない(注1

類というとどうしても意味素性の集まりとか数学の公式とか、ゆるぎない正確なものをイメージする。
しかし、それは人間にとって現実的ではない。人間はそのように正確に記憶していないし、いちいち概念の意味素性の集まりを把握していないからだ。
なので、恐らく普遍概念というのは「大雑把なデータ」のような伸縮性に富む柔軟なものなのではないかと思う。
そしてその意味では普遍概念は確かに人間の脳内に実在し、ゆえにセレンは実在論を推すわけだ。

だけど、言語の力を過信するという意味では、唯名論は好都合だと思っている。
そういうわけで、場面ごとに使い分けてどっちもどっちというスタンスを取ることになると思われる。

注1)まぁウチの猫も毎回異なるサンマをサンマと同定して寄ってくるから、サンマの類を獲得していると思われる。従って人間がいなくても動物がいれば類は存在すると思われる。いずれにせよ、ヒトだろうがヒトでなかろうが、大事なのは、「認知するもの」の存在を前提とすることだ。