niasさんからこういうレスがあって。

ああ、動機づけとして常にやらなきゃ死ぬという状況に置いておけば
わざわざ英雄物語を汚さずにすむんじゃないかと言いたかったのです。
というか、今までのアルディアもそれに近かったような気がします


このレスに対するレスというわけではないが、これがきっかけで以下のことを考えた。
英雄物語としては利権でなく必死こいて世界を守ったほうがいいなぁ、と思い直した。
まぁ、実際のところセレンやリディアは地球の英雄に比べてあまり立身出世や功名を狙うような性格でもないんだよな。
世界征服を求めるほど権力に飢えてもいないし。あの設定には無理があるな。

ただ、世界のすべてを慈善事業で守ったというほど白くはないと思う。悪人ではないが、お人よしすぎるわけでもない。
彼らは多分自分の仲間を守りたかったんじゃないかな。
自分と仲間が楽しく過ごせる世界を守りたくて戦っていたんだろうな。

しかしそれだけだとアシェルフィに篭ればいいことになる。
それでも戦ったのは、旅の過程で「助けるべき人間とそうでない人間がいる」というこの世の真理を知ったからではないか。
人は完全に善でもないし、完全に悪でもない。人類すべてが滅びる対象ではないし、すべてが救われる対象でもない。
だからまず悪魔を追い払った上で、救うべき人間を救い、排他すべき人間を排他するために統治を行ったんだろう。
まぁ、為政者としては標準的だな。


さて、別件。
最近、年をとったからかKakisさんに影響されたか、どうもアルカというひとつの正義を押し付けるのはどうかと思ってきた。
あれはひとつのあり方であって、それ以上でも以下でもない。

アルカというのが英雄アシェットの推進した言語で、上方アルバザード語となり、やがてアルバザードの国力を背景に国際語になっていったというのはいい。
それは英語などと同じで、国力さえあれば言語というのは国際語として広まるものだ。

問題は、アルカを喋れない人をテームスの名の下に殺していいのかということだ。
結局作者がアルカを喋れない人を排他したくてテームスに処分させたにすぎない。
どうも「アルカ革命」自体、制アルカの統一思想に影響を受けすぎている。

最近思うんだが、世界はもっと柔軟でもいいんじゃないか。
ひとつの正義に拘泥しなくてもいいんじゃないか。
そのほうが、広がりある、現実的な世界なのではないか。

アルカが英語以上の国際語になるのはいい。
しかし、異言語の存在まで否定できるものだろうか。
フィルヴェーユはフィルヴェーユで、古ルティアはそのまま発展して現ルティアに、古アルバレンも現アルバレンになっているのではないか。
地理的な問題でアシェットお膝元のアルバザードはアルカを使うものの、農村部では未だにアルバレンを話し続けているのではないだろうか。

「テームスによって異言語が滅んでアルカが唯一の言語に」
「ベルトのヒトコロリでヒトが一瞬で絶滅し、アルカは保護された」

これらはいずれもアルカ保護政策にすぎない。
保護するためにかなりご都合主義を導入している。ここがどうも引っかかる。
異言語は残り続け、ヒトは乱獲され絶滅したとしたほうが、現実的だろう。