人工言語で感情を
人間は言語によって感情を動かされます
本を読んだり映画を見たり人と話したりして、喜怒哀楽が起こります。これは凄いことです
英語が全くできない人からみれば、英語で喜怒哀楽を起こしている人が不思議にみえるものです
こっちからすれば何だかよく分からない音波の集まりなのに、それによって誰かが泣いたり笑ったりする
「同じラングを共有しているからだ」といえば素っ気無い答えですが、それにしてもただの音波で感情の起伏が起こるというのは凄いことです
でも、それはあまりにも日常的なので、異言語にでも触れない限り、誰も不思議に思いません
さて、人工言語も言語ですから、喜怒哀楽を起こせるのでしょうか
はい、起こせます。後験語だと特に簡単です
後験語は自然言語から語の材料や文法、文化、風土を借りてきているため、突き詰めればアレンジした自然言語です
したがって、後験語で喜怒哀楽を起こすのは自然言語で喜怒哀楽を起こすのと大差ありません
では、新生人工言語論を踏まえた言語、即ち人工文化や人工風土を考慮した新生人工言語ではどうでしょう
自然言語から何一つ取り入れていない言語です。いわば白紙の状態から作った言語です
ただ、白紙からの言語でも言語は言語なので、自然言語と同じく、物理的にはただの音波です
そこには自然言語と同じく語法があり、コロケーションがあり、文化があります
その結果、そういった要素から作られた語の概念があります
そしてその概念に対して人間は喜怒哀楽を抱くことができます
つまり、白紙から作った借り物でない言語による音波で泣いたり笑ったりできるのです
もし作成者が存在しなかったら、それはただの音波の集まりで、誰も感情を揺さぶられなかったでしょう
しかし人工言語独特のラングを共有することで、感情を揺さぶることができます
作成者がいなければ音波でしかなかったのに、有意味なパロールにできるのです
私が人工言語作成で一番素晴らしいと思ったことはこの点です
既存の自然言語と違って、特定の誰かによって無から生み出された音の集まりが人を泣かせ、笑わせる
もし私が存在しなければアルカはなく、私たちがアルカで喜怒哀楽を感じることはなかったでしょう
なにせ、アルカがなければそれはただの音波でしかありませんから
人工言語を作って、喜怒哀楽をその言語を介して感じることがあったら、その言語は比較的進歩しているといえます
始めは命題や簡単な疑問文等を伝えるので精一杯な人工言語
それが徐々にコミュニケーションの道具となり、やがて人の感情を揺さぶるようになる
日常語や簡単な例文が訳せるようになるより先に感情を揺さぶる言葉を作ることはできません
こういう言葉のやり取りは長年やって初めて作られるものです
ところで、喜怒哀楽で大雑把に感情を分けるとすると、人工言語で一番始めに感じるのは何でしょうか
実は外国語と同じです
喜や楽は比較的簡単に体験できます。ちょっとした言い回しや言い方などがささやかな笑いを誘います
次は哀です。哀しみを言語で表現するときは独白になりがちですが、それを言うにはそこそこの習熟度が必要だからです
最後は怒です。怒りは実は一番難しい。怒りというのはある種、フラストレーションの吐露という意味を持ちます
怒りは問題解決のためでなく、単に相手にぶつけることによってストレスを発散するというカタルシスに使われやすいです
そこで、効率よくカタルシスできるのは言うまでもなく母語です
喜哀楽は人と共有することによって意味が増します。特に哀を独白する場合、聞き手がいるかどうかで有意性が非常に変わります
ですが、怒りは聞き手と共有する必要がなく、単に聞き手にぶちまければいいわけです、単なる吐露ですから
したがって、怒りはしばしば母語で行われます。勿論、内容を相手に理解してもらいたいときは冷静を保って母語に頼らないでしょうが
しかも独白の哀と違って怒りの発話は早いため、母語でないと言いづらいという事情もあるでしょう
まして怒っているときは冷静に考えられないので、自然と口から紡ぎだされる母語でないと難しいです
このことからも怒りには母語が選ばれやすいといえます
こうしてみてみると、自言語で怒れるようになれば、その人はかなり習熟しているということができます
まぁ、あまり温和な手段ではありませんが……
最後に
人工言語って人間くさいのが、私は好きです
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