人工言語の天秤
ふと思った独白です
小学の終わりから中学にかけて、子供は自分の言語に今までとは違った観点で関心を持つようになる。
その結果、行動にも変化が現われる。受動的に親から聞かされていたばかりの母語を今度は自分から発話するようになる。
定型文以外の言葉も自発的に言えるようになる。また、本で覚えた語を使いたがって自慢気になったりする。
耳ざとくなり、夜更かしも始まるのでラジオにはまったりする。
日記をつけたり小説を書いたりするようになる。
これには臨界期が関与しているが、臨界期云々についてはここで論じない。
この頃の子供は言語に敏感で、言語に飢えている。
いま述べたようなことはクラスの半分くらいが感じる。
半分の中の更に半分が非論理的な言い方が気になったりする。
人一倍の一倍は二倍じゃないのかとか、「みんな言ってるよ」の「みんな」というのは厳密にはおかしいのではないか、など。
頭の良い子ほど、こういうことを考える。馬鹿は考えないで遊ぶことしかしない。
そんな子供の中の一握りが自分の言語以外の言語にも目を向ける。
それは大抵学校で習う言葉なのだが、ほんの一握りの子供が母語と外国語以外にも興味を持つ。
それが自分の言葉だ。その子は自分で言葉を作りたくなる衝動に駆られる。
思春期の他愛も無い秘密――誰ちゃんは誰君が好きといったような――を書くために、誰にも分からない言葉がほしくなる。
そんな人間が稀にいる。でも、誰にも言わないでおく。そうでないと価値がないし、馬鹿からバカにされてしまうから。
だからちょっと授業中に隙を見てノートの端に自分の言葉を作ってみたりする。
大抵は日本語か英語がベースで、作って数日もすれば忘れてしまう。
これは言葉というよりは暗号だ。
この段階はむしろ女の子の方が多いかもしれない。
クラスに1人そういう子がいれば、学校では数人いることになる。
市ではもっとたくさんいて、県ではもっといる。日本全国にはかなりいることになる。
でもそういう子供の遊びはすぐに終わってしまう。
いつだかノートを見返したときに、これは何だろうと思いだせなくなるほどに。
高校や大学で言語を作ろうという望みを抱いたり再燃する人間がいる。
一握りの砂を握った手から零れた数粒の人間だ。
知識があるのである程度まとまった言語ができるが、母語と外国語の干渉が大きい。
日本でいうなら日本語と英語の干渉が大きい。
彼らも百前後の語を作って少しの文法を作ると諦めてしまう。
手から零れた砂のうち、風で吹き飛ばされなかったものが最後に残る。
その砂粒はなぜ残ったのか。
純粋な知的好奇心を纏っていたからだ。
彼は天秤に言語を載せる。片方には日本語か英語。もう片方には自分の言語。
日本語は母語として重要だ。英語は国際語として、或いは受験科目として重要だ。
しかしどちらも自然言語で覚えるのが難しい。
そこで簡単な言語を作ろうとする。
分銅は「価値」だ。価値があるほど重い分銅になる。価値は作成者の主観なので、この分銅は主観的な重さを持つ。
作り始め、人工言語は簡単で覚えやすく、世界中がこれを採択すれば面倒ごとがたくさん減ると考える。
天秤は著しく人工言語に傾いている。
無駄のない合理的な文法を作り、簡単な音素を選び、語をいくつか作り、例文を作ってみる。
このころは快調だ。天秤は傾いている。
だが、語彙を拡充するうちに、恣意性が避けられないことに気付く。
鳥類に一々「~鳥」という名を付ければ形態素は少なくて済むが、合成語が増え、語形が長くなる。
するとよく見る鳥は単純語にして短くしようと思う。だがそれでは覚えることが増え、自然言語と変わらない。
これで天秤が逆に傾きだす。ここで大半が諦める。
また、「ソケット」「つんのめる」のような、そもそも何に分類すればいいのか分からない語が出てくる。
合成語にするのが難しい。無理にすると異様に長くなる。何個もの形態素を組み合わせるからだ。
そうでなくば合成語にしても情報量が少なすぎて何を示しているのか分からない。
結局、分類しづらい語は捨て置いて単純語にするか、長い合成語にするかしかない。
これで天秤がまた傾く。ここでも諦める人間が続出する。
それに、ダチョウ一匹取ったところで、どう合成語いしていいのか迷う。
大きい鳥?飛べない鳥?何と命名しよう。結局それは恣意的に自分が決めるしかない。
この時点でその言語は国際的でも何でもなく、自分の内観によって決まるものであるという自覚に至る。
天秤が大きく傾く。更なる人が諦める。
そこで考えるのが客観性だ。そう、動物など学名のまま命名すればいい。
だが学名は長すぎる。実用に向かない。その上学名が常に正しいとは限らない。時代によって変化する。
また、鳥が全て同じ形態素を含むと聞き違いが大きくなる。
ある程度音を離さないと、と思う。しかしそれでは自然言語と同じ。
そうそう、結局同じなんだな。ここでも人が諦める。
「だったら始めから語彙はパクればいいじゃん」 そう。現存してる情報量の多い人工言語はパクリ型。
エスペラントなどがそう。語彙が何より面倒くさい。それをパクれれば話は早い。文法を整理した簡便な言語の出来上がり。
ところがそんなものもう世の中にいくらでもある。自分が作る意味がない。そこでまた諦める。
語彙をパクったらオリジナリティがない。どうにか出すには作るしかない。
でも語彙を作るっていってもダチョウのいない国もあるし、いる国もあるし、基準が分からない。
地球にあるもの全てを焦点化などしてられないし。
もう天秤はグラグラしてる。
そうか、自分の言語はどこか特定の場所で使われていることにしよう。
そこにダチョウがいなきゃ作る必要もないし。
これが人工文化と人工風土の萌芽。日本に何個咲いたか分からないほど希少な萌芽
「でも、そんな途方もないことできるか。
仮にやっても誰も使ってくれないし、何か得があるわけでもないし。
そもそも俺だけの暗号ならそんな細かさはいらないし、作ったところで話し相手がいないと意味ないじゃん」
その通り。実用性は少ない。
それに、文化や風土まで創るんならもう英語なんかの難しさと変わらない。
それだけ苦労して作っても就職にも有利じゃないし、何の利点があるんだ。
それなら英語やったほうがマシだ。少し文法やらが難しいくらい、利点を考えればなんてことはない。
馬鹿馬鹿しい、英語をやろう。俺ももう良い年だ。働かないと。
学生だった彼はもう年を取っていた。天秤などとっくに箍が外れてしまっていた。
でも、そこまで来る人間がどこにいるだろう。
天秤が壊れるまで分銅をとっかえひっかえした人間がどこにいるだろう。
そんな砂粒、吹き飛ばされてしまう。
純粋な好奇心だけで天秤を使い古した人間を私は見てみたい。
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