文化なしで出来ること
全ての人工言語に人工文化が必要ではないとは以前述べたとおりです。言語の型によっては必要としないものもあるでしょう。
ですが文化はいずれにせよ必要です。たとえば親族名詞などは文化なしに設定することはできません。
作者が文化を作らなければ作者か使用者の自然文化がその人工言語の文化になります。借り物を使うことに問題のない言語の場合はそれで一向に構いません。
ただ、人工か自然かそのどちらにせよ、文化は言語に必要です。
しかしながら、全ての面で文化が必要とは思えません。そこで自然人工を問わず文化を御自分の人工言語に付与しようとされている方のために少し提案があります。
それは手順についてです。始めは言語の根幹となる音韻・音声の体系や文法を作るでしょう。しかし語義、特に語義の語法に手が回ったとき、突然ハタと困ります。
親族名詞の分け方や色の持つ象徴的な意味などに思いを馳せたときに、それを根拠付ける何かが必要となってきます。
ただその何かは文化だけではありません。人間工学的な人間の造り、或いは人間の本能もあります。
たとえば雷のマークですが、ふつうアルカのオヴィの文字みたいな形、縦長で下に下りて右に曲がってまた下に下る形を使いますよね。
あれ、ふと気になったんですが、日本でも感電の恐れありの警告に同じ図形が使われているのです。
ある人工言語の作成者の方が作られた雷を表わす文字も同じ形でした。
アメリカではどうかなと思ってelectric shock関係で調べてみたところ、標識関係はやはり同じ図形でした。
雷マークは象形なので似た形になるのは当然なのですが、面白いのは示し合わせたわけでもないのに左から右に線が進んでいくんです。
オヴィの左右対称にはならないのです。これは何でだろうと考えました。多分、右利きが多いからでしょうね。
線を下に引っ張って横に曲がるときに左に進むと手首が運びづらいのです。
右方向に文字が進むからというのも考えたのですが、雷マークは文中に出てくる文字ではないので通常単独で使われるため、文字の進行方向だけでは説明がつきません。
少しそれますが、興味深いことに、内輪に"ti os-e zom et iwa al jok?"(ゾムの字はジョクの字と左右対称だと思う?)と聞くと人によって答えが違いました。
アルカのzom,jokの文字は丸みを帯びているかいないかの違いしかありません。なので人によっては左右対称に映るわけです。
では何で私は片方だけに丸みを帯びさせたのでしょう。それは書きやすいからです。
元々幻字はたくさんある文字案を複数人に複数回書かせ、その時間を文字ごとにタイムウォッチで計測して選んだものです。
タイムが早く、それでいて汚くなっても他の字と混同しないものという基準で選ばれたのが今の字です。
当然、文字案の中には逆にしたZもありました。でも流線型のS型に負けました。書きにくいからです。書きにくいのは一重に右手首の構造によります。
これと同じことが雷マークにもいえるのでしょう。
このように、人間の造りに関することは概ねどこでも同じか少なくとも大多数を占めるので、何らかの文化に依存させずに決めることができます。
より言語に即した例をいうなら、汚れは下に溜まるので上のほうが下より良い印象を持つのが普通です。
殆どの言語で、というより私が知る限り全ての文化圏で上のほうが下に勝るようです。
院生時代に教授に「上と下が等価な文化ってあるの?」と授業中に聞かれたことがありますが、「存じません」と答えた記憶があります。
因みに、アルカの場合は複雑で、jan>jinですが、gava
要するに人間が立っているところが一番悪い扱いを受けています。
まずは文化なしで出来る範囲で語法を決めるのが良いでしょう。人間の造りや本能はかなり使えます。
注意点は、絶対逆の順序にしないことです。特に人工文化はどんなに丁寧に作っても作成者の恣意と驕りが常に付きまといます。
できればそういった自称世界の創造神のような行動は最小限に抑えるべきです。特に自分の作品を後々人に見てもらいたい方は。
そこで、人間の造りなど、文化を必要としないもの、換言すれば揺るぎないものをふんだんに使いましょう。
揺るぎないもので埋まりきらなかった部分を埋め合わせるために初めて文化を使いましょう。
まとめると、文化を創る或いは借りる前にする準備はこうです。
まず音と文法を作り、同時に最小限の機能語の類を作る。それから語彙を拡充していきます。
拡充の際に語義や語法を決める必要がある。でないと使用者が適切にその言語を使用できない。
語法を決める際に自己中で人に分かりづらいものにすると後々自分にも使いづらい(但し、あえてそれを狙った言語なら問題なし)。
そこで人間の造りや本能といった揺るぎないもので決められる部分は決めておく。
それからどうしても決められなかった部分を補うために文化を借りるか創るかする。
これが文化に着手するまでにしておくべき準備だと思います。同時にここが文化なしで出来る限界点だと思います。
因みに、文化を創るにはそれを支える風土が必要なので、同時に風土についても考える必要が出てくると思います。
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