学問の薦め



言語なり文化なりを作る人の動機を集めていて、動機というのはいくつかに分類できるなと思いました。
たとえばひとつの動機として、自然言語の不備に不満があって合理的なものを作りたいと思ったというのがあるようです。
また、自分の独創的な世界を作るために作る人もいるようです。

これらの人は多かれ少なかれ自然言語や自然文化を軽視する傾向にあるでしょう。なにせ動機が自然言語への反感ですから。
言語や文化を創る人にとって、殊にこのような動機の人にとって重要なのは、既存のものの学習です。

たとえば語を作っていて、この語は文化なんか絡みようもないだろうなんて甘く考えていると痛い目を見ることがあります。
確かに稲と米:riceなんていう語は注意しなくても文化差があることに気付くでしょう。
でも、きちんと既存のものを学んで予備知識を身に着けないと、一見文化が絡まないような語を見落としてしまいがちです。

subscribeという英単語を取り上げましょう。
受験の単語帳には署名する、寄付する、予約購読するなんて語義がまばらに書いてあるだけです。
物によっては「署名」は自明なので書かず、定期購読するという語義だけ書いてあるものまであります。ページの都合とはいえ不親切です。

subscribeの語源は少し西洋語に慣れていれば「下に書く」だろうなと想像がつきます。
ですが、それがなぜこのような多義語を生むのか。それが中々理解できません。普通に考えて「下に書く」が定期購読にはならないでしょう。
この語は15世紀には語源通りしっかり下に書くという意味で使われていました。
英語は左上から右下に向かって文を書くので、証書の署名は当然読み終わった場所、つまり下に書きます。こうして「署名する」という語義が生まれました。
ここでは語義の変化に英語の文字の進行方向という要素が絡んできました。でもこの段階では文化というより言語の性質が絡んできただけです。

さて、この下のほうに書いて署名するという行為は、たとえばそれが同意書であれば署名が同意を意味するので、同意するという意味になります。
書面がやや強引であれば同意でなく服従という意味にもなるでしょう。
裁判や契約のような紙であれば効力を認めるという意味にもなるでしょう。新聞などの定期購読をする際も申込書に署名しますよね。
尚、これらは全てメトニミーです。署名するというイベントとその後に起こる同意や寄付という行為の隣接性によるメトニミーです。
ついでに、始めは署名を必要とした行為も新語義の誕生によって必ずしもペンが必要ではなくなりました。subscribeするときに必ず署名するとは限らなくなったわけです。
で、いま述べた語義が全てsubscribeの語義なのです。何世紀もかけて徐々に語義を増やしましたが、根底にあるのは署名するという行為です。

御存知のように、日本は判子文化ですが、欧米はサイン文化です。サインが有効な契約手段になります。
つまり署名するということは日本でいう判を押す、捺印する、太鼓判を押すというのと同じウェイトを持っています。
もし英語がサイン文化になかったら、署名するという行為が同意や効力の認証を表わすことはなかったでしょう。

語源としては下に書くという単純な意味でしかない語が、サイン文化に支えられてこのように語義を広めていきました。
subscribeはriceに比べるとよっぽど見えにくく、一見文化など絡まずに作れそうにみえます。逆にそれが怖いところです。
自分の言語を作るとき、こういったディティールも考慮しなければ造詣の粗いものになってしまうからです。

では、こういうディティールに気付く目をどうやって養うかですが、それがタイトルの学問の薦めです。
こういうのは語感とか言語センスの問題です、ハッキリ言って。そしてそのセンスは才能と努力で作られます。
才能はブースターで、これだけでは機能しません。10の努力をしたときにその結果が10のままなのか20に跳ね上がるのか、それが才能の機能です。
いくら才能があっても努力をインプットしないかぎりは結果はゼロです。

性に合わない数学的なメタファーはこのくらいにして、要するに言語なり文化なりを作るならセンスを養うためにたくさん勉強しましょうということです。
材料は英語で十分です。日本語との差異が大きいのでむしろ韓国語よりも学ぶことは多いでしょう。
勿論、できれば英語以外もやるべきです。お勧めは資料が手に入りやすい言語です。でないと語法とか細かい語義が分かりませんからね。

他者の作った人工言語があればそれも学ぶべきです。
自然言語に比べると規模が小さくて情報量が少ない傾向にあるので、比較的情報量が多くしっかり作りこんである言語を習得すべきです。
それをしないで自力で作ろうとするのは小説も読まずに小説を書くようなものです。或いは先行文献も調べずに論文を書くようなものです。

学問を学ぶというのは語学だけではありません。人工言語屋は多彩な知識を要求されます。
その言語での数学も要求されるし、自然科学や自然現象も要求されるでしょう?なので幅広い知識を得ておいたほうが良いと思います。
でもやはり最初は語学です。なんといっても言葉を創るのですから。

学んでいるとたくさんの発見がありますが、面白いのは母語との異同です。日本語と韓国語のように似ていると思っているものは相違部分が興味深いです。
逆に日本語と感覚が違うと打ちひしがれる英語においては類似性を見つけるととても面白いです。

以前、風邪を引くという句について考えたことがあります。
中国語では感冒なので、「感じる」です。英語ではcatch。アルカではav-eかetかna-e、つまり「得る」か「なる」か「感じる」です。
感覚としては日本語の「引く」が母語であるにもかかわらず最も理解不能です。なぜ風邪を「引く」の?病気って引っ張れるのか?どういう感覚?と不思議でした。
ですがそのときふっと英語でもcontractは病気になるという他動詞で使えるということを思い出しました。
con-tractは「互いに引き合う」ですから、tract「引く」が出てきているんですよね。あ、英語でも引っ張るんだと思いました。
こういう類似性を見つけては面白がるわけですが、こんな瑣末な経験の累積が皮肉にも言語センスを作ります。

また、対照するということはセンスを養うのに効果的な手段です。対照することによって母語がかえって良く見えるということもあります。
以前、なんでウサギは一羽と数えるんだろうと考えました。諸説あるようですが、私が考えたのはこうです。
中世ヨーロッパではウサギがメインの蛋白源だったため、ウサギを表わす単純語がいくつかあります。
でも日本は主に鳥を食べていました。しかしそれはあくまで主にであって、やはり日本でもウサギは身近な蛋白源でした。
日本人にとってよく食べる肉というのは鳥やウサギでした。勿論猪や鹿も食べましたが。

ウサギは大きさが鳥と同じくらいで、小型の動物です。まず大きさという点で鳥に類似しています。
次に、今述べたように身近な蛋白源という点での類似性。
そして後はウサギが跳び、鳥が飛ぶという類似性。日本語はflyもjumpも「とぶ」ですから、ここでも多少の類似性を感じることはできます。
これらひとつひとつは傍証でしかないので単品ではウサギを一羽と数える根拠としては噴飯物ですが、集積するともっともらしい根拠になると思います。
そこで、ウサギは総合的な類似性によって一羽と数えられたのでしょう。
これは英語と対照し、文化の違いを考えながら出したひとつの解釈です。対照することによって考察が一段深くなります。
ですから、この対照というアドバンテージをどんどん活用しようじゃないですか。

こうやって学び、考えることの集積が言語センスを作り、やがて自言語を作るときに役立ちます。
たとえば4年勉強した後に言語を作って振り返ったらぞっとするんじゃないでしょうか。
俺はあんな無知のまま言語を作ろうとしてたのか……あのままだったら何ができあがったことか……と。
更に4年勉強すればまた同じことを思うでしょう。
でも、そんなこといってたら死ぬまで作れませんから、ある程度学んだら作り始め、作りながら勉強していくのが一番だと思います。


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