大学の卒論で、言語学は似非科学に向かって奔走していると述べたのは、既に懐かしいことだ。

言語学は言語学を似非科学にするために、「Aという言語を作ってみたら非常にちぐはぐしていた。人間はちぐはぐを嫌うので、Aにしなかったのだろう」というような「実際は正しいが科学的でない考察」を排他する。
これは手法が科学的でないことを理由に事実を事実と認めない悪い流れだ。

物体の落下と違い、言語は直接人間の脳に電極をぶっ刺すやり方で観察を行わない。
人間の口から出る曖昧な言語を用いて考察をするしかない。

だからイマイチ科学になれない。科学になれないので人文の扱いを受ける。
人文は最もワーキングプアを生産していることから分かる通り、社会的な評価が低い。
ようするに役に立たない学問とされる。
だから学生も集まらないし、講師の席もない。教授さえ立場が危うい。
従って研究一辺倒にはなれず、興味もない教育系に身を置かざるを得ない。悲惨な世界である。

――ということはなかなかプライドがあって中の人は認めたがらないが、元中の人としては悲惨な現実を見てきた。

さて、だからこそせめて学問的な権威をつけたいと科学を目指す気持ちは分かる。
だが、実際には似非科学にしかなっていない。

しかし、言語というのは、作って初めて分かることだが、かなり客観的ではない。
非常に主観的で、人間の認知によるものである。
緑の中に朱色があれば人間は赤だと思うが、真赤の中に朱色があれば人間はオレンジだと思う。
そのようないい加減で相対的で主観的な認知の所産が言語である。
まったくもって物体の落下のようには話が進まない。
(だから、しいていえば言語学の中では私は認知派)

だが、言語学者の多くは、それを認めつつも、できるだけ科学に無理に近づけようとする。
だから、結果的に似非科学になる。
言語学で科学と呼べるのは音声学や脳科学との連携など、極めて少ない分野である。

基本語順と修飾語順を見るといい。
言語を作る作業をした人間は、「Aをすると言語が使いづらくなるから、Aを避けるんだな」と容易に理解できる。
だが、ようするにそれは「めんどいからAでなくBを選んだ」というのを認めることになる。
使いづらいも面倒くさいも主観的な問題で、境界線が分からない。科学にはなれない。
科学には「100パスカル」のような考え方はあっても、「53めんどくさい」という考え方はない。

そこで言語学者は科学に近付けるため、たとえ「何となくめんどうくさいから」が事実であったとしても、その事実を見ない。
どうにか科学っぽく説明しようとし、似非科学に留まる。
(もっとも、すべての言語学がこのような考えではないからこそ、私にも好ましい言語学派があるのだけれど)

私がこのように強く考えるのは、言語を作ったからである。
曲を作る人は曲を演奏するだけの人と、物の見方が違う。
絵の鑑賞者と描き手では見方が違う。

だが不思議なことに言語は使い手ばかりで、作り手がいない。
ほかの分野に比べれば異様なアンバランスさである。
なにせ学者までがこのアンバランスさに貢献している。

従って、それらの学者の集まりである現代の言語学がアンバランスでないと誰が言えようか。
異様なアンバランスであるにも関わらず、井の中の蛙の言語学者は言語を作るという価値観なくして、言語を語ろうとする。
ここに大きな見落としがある。彼らの視点では死角になって見えないことがたくさんあるということだ。

そこで私が思うのは、音楽や料理やスポーツ同様、作る側の視点も入れたほうがよいということだ。
だが、そんなこと言語学者がするはずもない。そういうパラダイムだからね。最も金にならないし。
だから、せめて自分はその第一人者でいようと思っている。

17年言語を作り続けると、他人と違う考えも持つようになる。
本を読むのもいいが、子供のころから外国人相手に自然言語と人工言語に触れてくると、言語が机上の存在でなくなる。
言語学をやってて「なんでこいつらこんなことにも気付かないのかな」と思うことが多々あった。
似非科学にしようと事実を覆っているから見えない。

言語はもっと泥臭いものだ。