例えば歩くというのは一歩歩いても歩いたと言えるし、駅まで歩いても歩いたと言える。
後者は前者の積み重ねであるから、歩くは一歩歩く行為の累積の結果であると言える。
そこでlukのような動詞を累積動詞とし、それ以外を単位動詞とした。

ところがこれの欠点は、動詞ごとに類別を覚えなければならない点である。
そこで見方を変えた。

例えばke felka(学校に行く)という行為について考える。
学校に到着したら完了でkek felkaと言える。
ところが3歩であきらめた場合、3歩でも一応「行った」ことになるだろうか?

もちろん、ならない。歩くの場合は一歩でも歩いたことになるのに、である。
この違いは何か。原因はゴールの有無である。

歩く場合、ゴールがないので、一歩でも歩いたことになる。
だが行くはゴールがあるので、着かないと行ったことにはならない。
歩くにしても「駅まで歩いた」とゴールを設けると、駅に向けて一歩歩いただけでは歩いたことにならなくなる。

これは移動動詞以外にも言える。
「読む」という行為はゴールをもうけずに行うことができる。
だから、1秒でも読めば読んだと言える。
だが「本を読む」とゴールを付けると話は変わる。
最後まで読まないで「読んだ」と言ったらインチキになる。

ゴールのない動詞を非有界動詞と呼び、ゴールのある動詞を有界動詞と呼ぼう。
累積動詞になれるのは前者だ。
また、動詞総数で見れば、後者のほうが多い。

人工言語としてはどちらかにまとめたほうが、動詞の類別を覚えなくて済むというものだ。
非有界に便宜上のゴールを与えてしまえば、すべての動詞を有界として捉えることができる。
例えば一歩歩くというのは一歩という量がゴールである。
1秒読むというのもその1秒がゴール(時間制限というべきか)である。

このように、非有界にもゴールを見立てれば、有界にできる。
言い換えれば、累積動詞は要らない。

従ってアルカではlukは足を最初に動かした時点が開始で、そこから一歩先だろうが駅までだろうが、とにかく足を止めた時点が完了になる。
lukik du ko lukと言えば、一歩歩く工程が終わり、足が地面に着いた時点を指す。
lukik a lopnと言えば、駅に到着した時点を指す。
同じように有界で捉えられる上、このように表現上の支障もない。

ゆえに、新生では累積を消す。
同時に、単位動詞もレーゾンデートルを失う。
類別は行為動詞と状態動詞のみになる。

行為と状態