論理的なアプリオリの境界線を踏まえた上で。
新生アルカはアプリオリだが、古アルカがベースに入っている。
古アルカは多国籍のメンバーが作ったもので、ちゃんぽん的な造りになっていた。
古アルカはピジンに近く、アポステリオリな部分がある。例を挙げよう。
古アルカは多国籍のメンバーが作ったもので、ちゃんぽん的な造りになっていた。
古アルカはピジンに近く、アポステリオリな部分がある。例を挙げよう。
新生アルカがSVOなのは古アルカがSVOだったことに由来する。
古アルカがSVOなのは名詞が無標で動詞が有標だったため、動詞をSとOの間に置くと、SとOの区別がしやすいという理由だ。
とはいえ、メンバーは西洋人(フランスとか)が多かったので、単純に彼らの母語の影響でSVOになった可能性もなくはない。
その場合、古アルカのSVOはアポステリオリな語順となる。
古アルカがSVOなのは名詞が無標で動詞が有標だったため、動詞をSとOの間に置くと、SとOの区別がしやすいという理由だ。
とはいえ、メンバーは西洋人(フランスとか)が多かったので、単純に彼らの母語の影響でSVOになった可能性もなくはない。
その場合、古アルカのSVOはアポステリオリな語順となる。
というように、アルカも完全にアプリオリとは言い難い。
もっとも新生の場合、一度基本語順がSOVになってから、考察の上でSVOを選んだ。
この時点で文法から見直しているので、新生だけで見ればアプリオリといえる。
もっとも新生の場合、一度基本語順がSOVになってから、考察の上でSVOを選んだ。
この時点で文法から見直しているので、新生だけで見ればアプリオリといえる。
さて、恣意や語感で単語を作る場合、セレンは自分の気に入った音を選ぶ。リディアも然り。
自分たちがカッコイイと思った音を選ぶ。例えばanvelentとか(もちろんこれにも語源はあるので、適当に作っているわけではないが)。
カッコイイ音を選ぶのは新生から顕著になった。新生から芸術志向を優先できるようになったためだ。
制アルカのときは、音がヘンになろうが味気ない合成語を用いていた。xelfi(月光)のことをxeltpaaと言ったりね。
自分たちがカッコイイと思った音を選ぶ。例えばanvelentとか(もちろんこれにも語源はあるので、適当に作っているわけではないが)。
カッコイイ音を選ぶのは新生から顕著になった。新生から芸術志向を優先できるようになったためだ。
制アルカのときは、音がヘンになろうが味気ない合成語を用いていた。xelfi(月光)のことをxeltpaaと言ったりね。
で、カッコイイと思う音は、恐らく作者の環境に影響を受けている。
私は「ちゃんぐ」を、綺麗な音とは思わない。
「ちゃ」は「子供っぽい」し、「ぐ」は「汚い」からだ。それは日本語の語感だ。
自然とアルカで造語するときはこのような音を避けることがある。
私は「ちゃんぐ」を、綺麗な音とは思わない。
「ちゃ」は「子供っぽい」し、「ぐ」は「汚い」からだ。それは日本語の語感だ。
自然とアルカで造語するときはこのような音を避けることがある。
とはいえ、あくまでアルカの音象徴や単語をベースに造語をしなければならないため、毎回選択的に綺麗な音は選べない。
例えばku(言う)とかke(行く)という単語は、綺麗だと思えない。だが、この辺の基本語は動かしがたい。
そういう意味では、日本語の語感をベースにアルカの造語をしているわけではない。
例えばku(言う)とかke(行く)という単語は、綺麗だと思えない。だが、この辺の基本語は動かしがたい。
そういう意味では、日本語の語感をベースにアルカの造語をしているわけではない。
かといって、もしanvelentを指しうる単語の候補に「ちゃんぐ」があったとしたら、恐らくそちらは選ばなかったろう。
日本語の語感でanvelentを作ったのではないものの、選択する際に日本語の語感が意識に昇ることはある。
そして私はこれを芸術的なアプリオリの境界線と定義している。
つまり、「ちゃんぐ」を冷遇したりanvelentを優先したりするのはアプリオリとしてセーフという意味だ。
そのセーフの境界線が美観によるので、芸術的なアプリオリの境界線と呼んだまでだ。
日本語の語感でanvelentを作ったのではないものの、選択する際に日本語の語感が意識に昇ることはある。
そして私はこれを芸術的なアプリオリの境界線と定義している。
つまり、「ちゃんぐ」を冷遇したりanvelentを優先したりするのはアプリオリとしてセーフという意味だ。
そのセーフの境界線が美観によるので、芸術的なアプリオリの境界線と呼んだまでだ。
もちろん、日本語の語感をフルに使って、四足のにゃーにゃー鳴く獣をnekosとか造語したら、それはアウト。まちがいなくアポステリオリ。
猫を「森の方向を知るもの」というアルカの見方からkettoと命名するのは完全にアプリオリ。
一方、kettoのほかにgettagetaという候補もアルカの音象徴的にありえたとしよう。
このとき、「ゲッタゲタじゃ可愛くねぇなぁ」という日本語の語感を使ってkettoを優先させると、芸術的にアプリオリ。
――という違いだ。
猫を「森の方向を知るもの」というアルカの見方からkettoと命名するのは完全にアプリオリ。
一方、kettoのほかにgettagetaという候補もアルカの音象徴的にありえたとしよう。
このとき、「ゲッタゲタじゃ可愛くねぇなぁ」という日本語の語感を使ってkettoを優先させると、芸術的にアプリオリ。
――という違いだ。
今は単語を例に取ったが、文法や音韻などについても同様のことが言える。
さて、なぜ芸術的なアプリオリの境界線を論じたかについて。
セレンの目的は、リアルな架空の世界を作ることにある。その世界を作り、自分の頭の中にある創作物やストーリーを表現したい。
セレンの目的は、リアルな架空の世界を作ることにある。その世界を作り、自分の頭の中にある創作物やストーリーを表現したい。
日本語で作ると言語や世界まで日本語で構築されてしまう。それは神経質なセレンからすると、とても「夢を見るための世界」とは言えない。雑味が多すぎる。
セレンは『儚』など、子どものころから日本語で小説をたくさん書いてきたが、そのたび「どうしても日本のどこかの住所にしなくちゃいけないし、人物はおおむね日本人にしなくちゃいけないし、服も発想も日本式なんだよなぁ」という制約を感じた。
セレンは『儚』など、子どものころから日本語で小説をたくさん書いてきたが、そのたび「どうしても日本のどこかの住所にしなくちゃいけないし、人物はおおむね日本人にしなくちゃいけないし、服も発想も日本式なんだよなぁ」という制約を感じた。
それはとても重い束縛だった。セレンはもっと小さいころからリディアたちとの付き合いがあったので、日本語だけで生きていなかった。
言語によって物の見方や発想が変わることを体感していたので、小説を当然のように母語で書くことに疑問を抱いていた。
「小説家というのは日本語で書きたいんじゃなくて、日本語しか書けないから日本語で書いているんじゃないか?その場合、日本語に作品が拘束されてしまう」と考えた。
もし「この話は日本語に向いてるから日本語で書こう」という選択肢があれば立派な話だが、島国日本だと難しい。
商業的にはそれでOKだと思うが、自分はそうなりたくないなと思った。
言語によって物の見方や発想が変わることを体感していたので、小説を当然のように母語で書くことに疑問を抱いていた。
「小説家というのは日本語で書きたいんじゃなくて、日本語しか書けないから日本語で書いているんじゃないか?その場合、日本語に作品が拘束されてしまう」と考えた。
もし「この話は日本語に向いてるから日本語で書こう」という選択肢があれば立派な話だが、島国日本だと難しい。
商業的にはそれでOKだと思うが、自分はそうなりたくないなと思った。
当然アルカで書くとアルカに縛られるわけだが、私が嫌なのは何かに拘束されること自体ではない。
拘束相手の匂いが自分の作品に付くことが嫌なのだ。とても自立していない気持ちになる。
いくらオリジナルの話を作っても、釈迦の掌の上じゃないですか。どんなにやっても日本語の表現の壁を越えられない。ほら、この釈迦の掌だって仏教ベースの表現だ。
拘束相手の匂いが自分の作品に付くことが嫌なのだ。とても自立していない気持ちになる。
いくらオリジナルの話を作っても、釈迦の掌の上じゃないですか。どんなにやっても日本語の表現の壁を越えられない。ほら、この釈迦の掌だって仏教ベースの表現だ。
「この話はオリジナルのつもりだし、俺の心をあますところなく表現したものだ。そう思っていたが、日本語の表現範囲内で書いている以上、俺の心を100%表現できない。
俺の心を100%表現するには、俺の作った言語と世界で表現しなければならない。そうしなければ「100%ジュース」的な小説は書けない」
――と思った。なので、拘束するのは自分の言語でなくてはならないと思うようになった。
俺の心を100%表現するには、俺の作った言語と世界で表現しなければならない。そうしなければ「100%ジュース」的な小説は書けない」
――と思った。なので、拘束するのは自分の言語でなくてはならないと思うようになった。
そこで、何にも依存しない精神性を確保するために、自分の言語と世界を作ることに興味を覚えた。
正確にはリディアは他人だが、恋人なので、自分の心の内側に入れている。
自分の言語と世界は「100%ジュース」でなければ上記のような効果が出ない。そこで言語も文化もアプリオリである必要性がある。
正確にはリディアは他人だが、恋人なので、自分の心の内側に入れている。
自分の言語と世界は「100%ジュース」でなければ上記のような効果が出ない。そこで言語も文化もアプリオリである必要性がある。
セレンがほしいのは自分の考えを自立して表現するための言語だが、セレンがそれを美しいと思わなければ存在意味がない。芸術要素も重要だ。
なんというか、自分で「この言語、音があまり綺麗じゃないなぁ」と思うようなものは、作っても意味がない。使いたくないので。
いくらアプリオリでも、古アルカのように「歌」を「ギャケリク」というような言語では、美しいと思えない。
そこで芸術的なアプリオリの境界線の出番というわけだ。これによって、アプリオリを保ったまま、音楽を「レム」とすることができた。
こういうことを理論づけるために、この記事がある。
なんというか、自分で「この言語、音があまり綺麗じゃないなぁ」と思うようなものは、作っても意味がない。使いたくないので。
いくらアプリオリでも、古アルカのように「歌」を「ギャケリク」というような言語では、美しいと思えない。
そこで芸術的なアプリオリの境界線の出番というわけだ。これによって、アプリオリを保ったまま、音楽を「レム」とすることができた。
こういうことを理論づけるために、この記事がある。
要するに、リアルな架空世界であるためのアプリオリを残しつつ、自分が美しい芸術だと思えるものを作りたいというわけだ。
しかもその芸術は自分の小説や絵などを描くのに適した画材で、そういった創作をするのに向いた最良の道具として使う。
つまり、芸術作品であると同時に、画材のように実用品でもあるというわけだ。
それには芸術的なアプリオリの境界線が必須になる。
しかもその芸術は自分の小説や絵などを描くのに適した画材で、そういった創作をするのに向いた最良の道具として使う。
つまり、芸術作品であると同時に、画材のように実用品でもあるというわけだ。
それには芸術的なアプリオリの境界線が必須になる。