新生人工言語
一方、新生人工言語は固定の文化・風土を持つ。
一つひとつの語の語義やイメージなどが固定化されているので、上記のような誤解はない。
尚、この文化・風土は実在する地球上のものでも良いし、架空の創造物でも良い。
つまり、自然文化・風土を参照にしても良いし、人工文化・風土を参照にしても良い。
自然の場合は作成労力がかからない。人工の場合は多大な労力がかかる。
自然の方が便利に見えるが、特定の文化・風土を参照するとその民族にとって有利になり、差別が生まれる。
だからエスペラントはこの手法を取れない。
一方、人工の場合はどの民族にも肩入れしないので公平である。その代わり、作成労力は大きい。
これまで人工言語を作る際に文化と風土を考慮することはなかった。
まして人工的に文化と風土を作って言語を支える基盤にしようという考えなどなかった。
だが、自然言語が自然文化と自然風土に支えられるなら、人工言語が人工文化と人工風土に支えられるのは当然である。
尚、人工言語は自然文化・人工文化のどちらに支えられても良い。
人工言語には必ず人工文化が対応すると捉えるのはよくある誤り。
新生人工言語の発端は勿論このサイトに発するわけではない。その源流はそこかしこに見られた。
たとえばトールキンの『指輪物語』は西洋を参考にしながらも、独自の世界観の中で文化と風土を創りあげた。
その上、独自の言葉を小説内に盛り込んでいた。
こういった作品が新生人工言語の芽生えであることは間違いない。
他にも『スタートレック』のクリンゴン語などが新生人工言語的である。
共通して、人工文化に支えられた人工言語は小説などの作品に由来することが多い。
あくまで小説のスパイスとしての役割で、その言語が主題となることはない。
筆者は新生人工言語が小説の主題になることはないという考えを覆すために『紫苑の書』を書いた。
これは恐らく世界初の試みであろう。
新生人工言語の発端はファンタジーにある。
一方、旧人工言語の発端は先験語であろうと後験語であろうと普遍言語にある。
ファンタジー用途なので学問として成就しにくく、社会運動としても成就しにくい。新生人工言語は日陰の存在である。
ファンタジーなので人工言語として研究されることも少なく、人工言語界で出遅れた存在となった。
出遅れたというのは新しいということでもあるから、将に新生と呼ぶのがふさわしいわけである。
筆者はここでその日陰の存在を引っ張り出そうとしている。
新生人工言語は「最上のオリジナリティを持ったアプリオリ型言語」を作ることができる。
また、人工言語総体として最も人工的かつ最も自然言語に依存しない独立した言語を作ることができるのも新生人工言語である。
ファンタジーから生まれた架空言語が自然言語の最も対極に位置するアンチテーゼとして機能する。
かつてデカルトやライプニッツらが求めた先験語は結局西洋の科学感に依存したものである。
その意味で純粋な新生人工言語ではなく、科学の点でアポステリオリである。
結局彼らの試みもまた先験語の極みには至らなかった。
先験語の真髄は意外にもファンタジーから生まれた新生人工言語であった。
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